山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年2月を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)23

蓮華王院本堂(三十三間堂)

 現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛二年(一一六四)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(一二六六)に再建。その後、四度の大修理を経て七百五十年間護持されている。
 長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に百十八メートルあり、お堂正面の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に千一体もの観音像(重文)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という三十体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行われる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。
         京都市



養源院・山門。


養源院

 豊臣秀吉の側室淀殿が父の浅井長政の追善のため、文禄三年(一五九四)に政伯法印(長政の従弟)を開山として建立した寺で、長政の法号「養源院」を寺号とした。
 建立後、間もなく火災に遭ったため、元和七年(一六二一)に淀殿の妹で徳川秀忠夫人の崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建し、以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
 本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の将士が自刃した時の廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に、血天井として知られている。
 本堂の杉戸及び襖の絵(ともに重要文化財)は俵屋宗達の筆によるもので、杉戸には唐獅子、白象、麒麟等の珍しい行動が描かれており、奇抜で新鮮味にあふれ、中学・高校の美術の教科書にも用いられている。
        京都市



この日は京都ウォーキング協会のウォーキングイベントがあった。題して、大坂の陣400年 豊臣家と徳川家その1「方広寺と二条城」で、説明文を持っているのはスタッフの人。ご苦労様です。
このイベント、NHK大河ドラマ「真田丸」に連動して行われている。



続いて法住寺の山門が現れる。


2月25日(木)20:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鷹塚山地蔵尊3

鷹塚山、丘の頂上から東方向の眺め。フェンスで囲ってある。
この後、真下に見える住宅の車庫の前へ行ってみた。



南東方向。


そして南方向。丘の東側を大きく削ったようだ。道がなくなっている。


住宅の車庫前から撮影。下から見ると法面の工事はすっかり終わっていた。
ここに新しく住宅が建つのだろう。



やはり南側は大きく削られていた。
おしまい。



2月25日(木)20:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

鷹塚山地蔵尊2

鷹塚山地蔵尊。周りが随分と明るくなった感じ。


全体像。覆屋が邪魔でお顔の上の部分が上手く撮影出来ない。


お顔は風化したのか、頬を撫でられたのか、のっぺらぼう。
お顔から下の部分が少し灰色っぽいが、付近の潅木の伐採や、後でわかったが法面の工事に伴い砂埃を被っているように見えた。



耳の形は比較的残っている。やはり頬を撫でられたのだろうか。


おみ足。


2月25日(木)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

鷹塚山地蔵尊1

2016年2月25日(木)、あまりにも良い天気なので、午後から自宅近辺を散策した。
ご近所の庭で咲いている枝垂れ梅を見るのが目当て。
一昨年の春、自宅にも枝垂れ梅を植えたが、まだ小さくこれから5年先、10年先が楽しみ。

ぶらぶら歩いていると、奈良市西大寺高塚町の鷹塚山地蔵尊近くにやってきたので、久しぶりにお顔を拝しに行くことにした。

尚、画像はすべて携帯で撮影。

電信柱の住所表示は「あやめ池南四丁目7」となっているが、ここは西大寺高塚町との境に位置している。
右に見える住宅の車庫と、左の住宅のフェンスの間にある細い道を辿る。



電信柱の下に「鷹塚山地蔵尊」の道標が立っている。


枝垂れ梅が満開。素晴らしい。


住宅の間の細い道を辿ると、東方向がスッキリとしていて、眺望が得られた。これにはビックリ。潅木を伐採したようだ。


そして更に驚いたことには、お地蔵さんの前で、一人の男子生徒が勉強中だった。
画像中央は若草山。



2月25日(木)20:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)22

正面通を挟んで耳塚の北側に和菓子の店「京菓匠 甘春堂」(東店)があった。
この日はテレビか何かの取材が入っていたようだ。



大和大路通に戻り南へ歩くと、すぐに京都国立博物館が現れる。
尚、京都国立博物館は方広寺(大仏)の旧境内にあたる。



「左 豊國神社へ是より一丁」の道標。上の道標には豊国神社260mと表示されており、石の道標の距離、一丁(約109.09m)とマッチしない。石の道標はこの場所へ移動されたのだろう。


「大和大路通」近辺の地図。この地図は上が東。この後、七条通を少し歩いて、三十三間堂の東側を歩き南へ。東海道本線を横断し、京阪・東福寺駅の東に位置する瀧尾神社へと向かう。


三十三間堂、参拝入口。


2月24日(水)18:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)21

手前に拝殿、奥に本殿。


豊国神社を後にする。唐門から西方向の鳥居を撮影。


鳥居からまっすぐ西に下る。左右(南北)に大和大路通を横断すると、正面通(東西)と呼ばれる広い道が現れる。その前方、左奥に石造物(五輪塔)が見えた。


古墳のように見えるが、五輪塔が置かれていた。


耳塚の説明板。

耳塚(鼻塚)

 この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。
 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
 秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。
       京都市



2月24日(水)18:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)20

豊国神社・唐門。国宝。


豊国(とよくに)神社の駒札。

豊国神社

 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら))には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成(ごようぜい)天皇より正一位(しょういちい)の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。
       京都市



秀吉の馬印「千成瓢箪」にちなんだ瓢箪形の絵馬。


「豊國大明神」と記された扁額。扁額の後、欄間に見える鶴の彫刻は、桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した伝説的彫刻家、左甚五郎(ひだりじんごろう)の手によるものとされている。鶴はあまりに良い出来栄えであった事から、完成させると飛び立ってしまいかねず、あえて目を入れなかったという―笑。

Wikipediaによると、
左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。



唐門に使われている部材は全て欅で、出世を象徴する「鯉の滝登り」など見事な彫刻を観ることが出来た。(唐門は拝観自由)


2月24日(水)18:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)19

鐘楼の天井画。天女のように見える。


方広寺・本堂。この日は拝観せず。


東方向へ歩き、方広寺大仏殿跡へ向かう。

方広寺大仏殿跡

 天正13年(1585)年、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595年)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598年)には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17年(1612年)に大仏を事実上完成させました。しかしその後鋳造された梵鐘の銘文<国家安康 君臣豊楽>が、徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために、大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798年)の落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されます。大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通と呼ばれることも方広寺に由来しています。なお、 「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会(ほうえ)である方広会(ほごえ)にちなむといわれています。



付近は大仏殿跡緑地となっている。


2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施され、発見された遺構は地下に埋め戻して保管し、その上に小舗石を置いて地表に明示している。


2月23日(火)20:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)18

「防火用水」。


やがて大和大路通は道幅が広くなり、左に方広寺の大きな石垣を見る。


「大佛殿石垣」の石碑。


有名な方広寺の梵鐘。東大寺、知恩院と合わせ日本三大名鐘のひとつとされるが、まずその大きさに驚いた。


豊臣家滅亡を招いたとされる梵鐘の銘文にチョークのようなものでマークしてある。
「国(こっかあんこう)」「臣豊(くんしんほうらく)」が徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる。



2月23日(火)20:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)17

本堂の軒下、極彩色の装飾。韓国のお寺を連想する。


六波羅蜜寺を後にする。六波羅蜜寺のある東山区轆轤町から三盛町、門脇町、池殿町へと歩く。

平家ゆかりの町名によると、これらの町名にはそれぞれ、町名となった由緒があるらしい。
三盛町・・・平清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅があったと伝わる。
門脇町・・・平教盛邸があった場所。教盛の邸宅は六波羅の惣門の角に存在していた。その事から教盛は門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。
池殿町・・・平清盛の異母弟・平頼盛の邸宅があった場所。頼盛の邸宅は池殿と呼ばれていた。




「五軒ういろ」の店があった。以前、このお店で「ういろ」を買ったことがある。家族にも好評だったので、買おうとして立ち寄った。


ところが、お店の中に入って何回も「ごめん下さい」を繰り返したが、お店の人が出てこない。なので諦めて店を出た。呼び出し鈴はなかったように思う。残念。


玄関先に国旗掲揚した民家。この日は建国記念日。最近、このように日の丸を揚げる光景は非常に少ない。


2月23日(火)20:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)16

阿古屋塚。


阿古屋塚

阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。石造宝塔は鎌倉時代の作で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いている。
  歌舞伎 壇浦兜軍記「阿古屋」
平家の残党 悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五條坂に住む白拍子阿古屋を捕え、代官秩父庄司重忠は阿古屋に景清の所在を問い質す。阿古屋は知らぬと申し開きをするが、詮議のために弾かせた琴、三味線、胡弓などの調べに一点の乱れのないことに感動した重忠は阿古屋が景清の所在を知らぬことが真実であると知り釈放する。「阿古屋の琴責め」とも称される。平家物語の裏面に隠された「阿古屋」の悲恋を語り伝えるためにこれを記す。
 平成二十三年十二月吉日

 五代目 坂東玉三郎
 第六十五世山主 純性


壇浦兜軍記「阿古屋」は歌舞伎の演目(えんもく)の一つで、この石碑は五代目 坂東玉三郎が奉納した。



平清盛公乃塚。随分と黒ずんでいる。


この石造物には“六波羅蜜寺”ではなく“六波羅堂”と彫られているようだ。
「西國 十七番六波羅堂」。
尚、御詠歌は“六波羅堂”と詠む。
「 重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば 」。

また、石仏のお顔と下の石造物、元は別々のものに見える。
ネット検索すると、こんな画像がヒットした。
しかし、この画像もよく観ると、お顔と胴体は別物に見えてしまう。



地蔵堂。


2月22日(月)18:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)15

六道之辻から南へ歩くと「西國 十七番六波羅蜜寺」の寺標が立っている。
ちなみに第十六番は清水寺、第十八番は頂法寺(六角堂)。



周辺の観光案内図。
この後、六波羅蜜寺を観て、大和大路通を南に歩き五条通を横断。方広寺、豊国神社へと向かう。



六波羅蜜寺・本堂正面の鉄門。奥に写っているのが本堂。この門は閉められており、境内への入口は南側にあった。


六波羅蜜寺

 天歴五年(九五一)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十七番礼所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
 空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人像、平清盛坐像、長快作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶坐像も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶、八月の萬燈会、かくれ念仏として知られる十二月の空也踊躍念仏(国の重要無形民俗文化財)が有名である。
   京都市



画像右に見える、口から阿弥陀仏が出ている空也上人立像が有名。それ以外にも数多くの著名な仏像、肖像を有している。


2月22日(月)18:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

百丈岩

2016年2月21日(日)は、N氏とH氏、私の三人で京都府相楽郡和束町大字湯船にある「百丈岩」を探索してきた。主催はN氏で、H氏と私は今回初めて訪問した。
この岩は京都の自然200選の一つとなっている。

京都の自然200選 百丈岩

また、この岩は、京都府レッドデータブック2015の一つにもなっている。

百丈岩の近く文殊岩と呼ばれる大岩に磨崖仏、文殊菩薩が彫られていた。

午前中に駐車地点に戻り、昼食後、和束町撰原(えりはら)にある撰原峠子安地蔵尊と、この近くにある磨崖仏も観てきた。

画像は駐車地点(和束中央浄水場付近の駐車スペース)から百丈岩をピストンしたGPSログを表示している。



2月22日(月)18:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)14

「菱六もやし」の向かいが西福寺(さいふくじ)。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来坐像。開基は蓮性和尚。


「洛陽四十八願所第三拾壱番札所」の石標が立っていた。左上の提灯は上の字が切れているが「子育地蔵尊」。


奉納された絵馬など。

檀林皇后と弘法大師  (六はら地蔵尊由来記)

 人王五十二代嵯峨天皇(八〇九-八二二)の御代、弘法大師(七七四-八三五)当地に地蔵尊を建立し御自作の土仏の地蔵尊を安置せられる。ここは鳥辺野の無常所の入口にあたり、世に「六道の辻」と謂います。昔は六ッの仏堂がありましたが、現在は三仏堂が残っており、毎年八月のお盆には庶民の伝統行事「お精霊迎え」の六道詣りが幾百年も続けて行われています。
 弘法大師六道の辻地蔵堂開基の頃、嵯峨天皇(八〇九-八二二)の皇后になられた橘嘉智子姫(檀林皇后)がしばしば御参詣になられて、弘法大師に厚く御帰依あそばされ深く仏教をきわめられしとの事。亦弘仁五年(八一四)皇子正良親王御病いの時、当地蔵尊に御平癒御祈願をされ、無事御成長なされて、後に目出度く五十四代仁明天皇(八三三-八五〇)の御位におつきあそばされたので、世の人々は六道の辻地蔵尊を子育地蔵或は六はら地蔵などと呼ぶようになりました。



本尊の阿弥陀如来坐像。扁額には(右から)「法王殿」と記されている。
尚、このお寺には平安時代の檀林皇后を描いたといわれる江戸時代初期の「九想図絵」があり、風葬された死屍の変容が生々しく描かれている。

注)下記サイトは、九相図や地獄絵図など死者の姿の絵があり、現代のか弱い常識の持ち主の方では不適当とされるものがあります。そのような方は見ないようにお願い致します。『京都怖いとこめぐり 2015 西福寺の九相図と地獄絵図をついに見る。』



石碑「六道之辻」。右の住所表示は「東山区松原通大和大路東入轆轤(ろくろ)町」となっていた。

この辺りは六道の辻(ろくどうのつじ)と呼ばれる。六道というのは仏教用語で、人間は天界・人界・畜生・修羅・餓鬼・地獄の六つの世界を生まれ変わる存在であるという考えで、ここはその辻、すなわち、あの世とこの世の境目にあたるところ。

Discover Kyoto ディスカバー京都 六波羅探索



2月21日(日)22:25 | トラックバック(0) | コメント(3) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)13

このお茶屋、玄関の上の屋根に何やら置かれているが、「鍾馗(しょうき)さん」と呼ばれる魔除けの置物。


軒先に吊るされた提灯。宮川町のお茶屋さんの提灯で「三つ輪」紋様。


やがて左折して松原通を東へ歩く。
左に路地が見えたので立ち寄ったが、こんな狭い路地にもお茶屋が軒を連ねている。



この先、「建松商店街」の看板が掛かってる左右の通りが大和大路通。大和大路通を横断し更に東へと歩く。


左に「愛宕念仏寺元地」の石碑を見て歩くと、「菱六もやし」の看板が掛かった店が現れた。
後でわかったが、もやしとは、業界用語で種麹(たねこうじ)屋を云うらしい。

菱六もやし



2月21日(日)22:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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