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京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)21

手前に拝殿、奥に本殿。


豊国神社を後にする。唐門から西方向の鳥居を撮影。


鳥居からまっすぐ西に下る。左右(南北)に大和大路通を横断すると、正面通(東西)と呼ばれる広い道が現れる。その前方、左奥に石造物(五輪塔)が見えた。


古墳のように見えるが、五輪塔が置かれていた。


耳塚の説明板。

耳塚(鼻塚)

 この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。
 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
 秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。
       京都市



2月24日(水)18:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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