山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


ウォーキング・散策

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺37/37

明日香奥山バス停の近くにあった道標。
自然石に刻まれており、一見すると道標には見えない。



ライトを得て、なんとか判読出来たかな。
「右 者(は)せ いせ なら 道 / 弥勒菩薩 / 明治十四巳一月」。



明日香奥山バス停からバスに乗車し橿原神宮前駅から近鉄電車に乗った。
反省会は大和西大寺駅構内、「蔵元 豊祝 近鉄大和西大寺店」。
画像上は3種の利き酒セット 税込550円。
下は日替わりの一品(とんぺい焼き) 300円。



柚子トニック 440円。
春雨サラダ 300円。



レシート 1,590円。

おしまい。



Feb.6(Thu)06:04 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺36

飛鳥坐神社前の道路(県道124号線)を北へ歩く。
信号のある交差点の北西角に石仏が刻まれた道標。
「右 天能(の)かく山道 同行?」。
「左 お可(か)寺 かうや よし能(の) みち ?人」。



左側面。
「右 はせ いせ 浄念?」。



左の石柱にも道標らしき文字が刻まれていた。
「右?」。



周辺の案内図があったが、バス停の場所が表示されていない。
スマホを取り出してバス停を探してみる。
バス停は現在地からこの地図では左方向(東)にあった。



明日香奥山バス停に到着。
このバスはこの先で折り返し運転するようだ。
ここで待つ。

つづく。



Feb.5(Wed)05:55 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺35

拝殿に向かって右側に位置する「むすひの神石」。(陰陽石)
右側が男性器、左側が女性器を表している。(子孫繁栄)
神聖な空間を示すため、紙垂が取り付けられている。



参道石段の耳石。
世話人の名前が刻まれていた。



奥の社 皇太神社・奥の大石。
御祭神…天照皇大神・高皇産霊神。



吉備姫王墓で見た猿石に似ている。


飛鳥坐神社を後にする。
画像は周辺の観光案内図。

つづく。



Feb.5(Wed)05:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺34

陽石。


陽石は境内のあちこちで見られる。
陽物の形の石。崇拝の対象とされる。



飛鳥坐神社で催される奇祭「おんだ祭」の舞台となる神楽殿・西良殿。


神楽殿・西良殿と向い合う位置に建つ本殿・拝殿。


拝殿の前に立ちお参りする。
(お辞儀を二度)、二礼、二拍手、一礼、(お辞儀をもう一度)。

つづく。



Feb.5(Wed)05:46 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺33

手水鉢だが、一風変わった作りになっている。
【参考:Search Labs | AI による概要】
飛鳥坐神社の手水鉢の特徴
・飛鳥石が使用されている
・飛鳥時代の酒船石をモデルにした流水設備から水が流れている



扁額には「飛鳥杜」と刻まれていた。


飛鳥坐神社(あすかに います じんじゃ)
御由緒
国のまほろば大和の国に鎮まります当社の創建は定かではありませんが、「日本書紀」において、大国主神の第一子である当社の御祭神 事代主神〔ことしろぬしのかみ〕は、国譲りの際に、八十万〔やそよろづ〕の神々を天の高市〔あめのたけち〕(現在の飛鳥)に合〔あつ〕めて天〔あめ〕に昇られ、「首渠〔ひとごのかみ〕」いわゆる統率神として称えられています。
同書、天武天皇元年(673年)七月の条には「吾は高市社に居る、名は事代主神」との記載が見られ、更に朱鳥元年(686年)七月の条では「幣〔みてぐら〕を紀伊国に居す国懸神〔くにかかすのかみ〕、飛鳥四社、住吉大社に奉る」とあり、天武天皇の病気平癒祈願がなされた際に、朝廷より当社に奉幣があったことが記されています。
【参考:飛鳥坐神社 オフィシャルページ】
飛鳥坐神社公式ホームページ



参道の石段を登る。


石段を登り切った中央に“力石”と左右に陽石(信仰)が見られた。
“力石”とは男性は左手、女性は右手で持ち上げることができると幸福が訪れるとされている。

つづく。



Feb.5(Wed)05:43 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺32

遠路ようこそ飛鳥寺へ!御一読を

現在の本堂は古えの中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し本尊飛鳥大佛は千三百九十有余年間そのままに座したまうは奇跡の存在と言えよう。
平安朝まではより以上に膨張し中世以後天災地変、自然崩壊のため境内は1/20に縮小されたが、この長閑な青垣山こもれる風景に麗しい殿堂があった昔を偲べばうたた感慨無量といえようか。
聖徳太子は橘の藁(わら)小屋で生まれたまい、大陸の先生に先進国の学問を受け、その粋を取って国民の守るべき十七条憲法を示されたのがこの本尊に誓ってのことであった。
蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは必然的に飛鳥文化の扉が開けゆく固い約束にもなった。
即ち国家数千年の大計を果し得たことは権力の野望を充した一面見事な光彩を放ち得たといえよう。
驚くなかれ!佛法最初という寺のいくつかある中でも又、シルクロードの終点といわれる寺のいくつかある中で飛鳥寺こそその終着点であり、日本の起点になったことはまず疑いなき事実なり。
太子の師恵慈、慧聡が都の本格的なこの寺に住まわれたことも感激すべき事実である。
大化改新は勿論奈良朝然り、各宗の母胎揺藍の地になったこと。
また、世界に誇る万葉文学渕源の地ともいえよう。
既に我らの記憶から遠ざかったけれども、この土、この塵に曽て輝かなりし遠祖の香り、血が、汗が滲んでいることを思い起せば心揺ぶられ身の鼓動を禁じ得ない。
土地は枯れ、寺は寂びれて、み佛は傷つけども、領土・民族のあらん限り歴史のふる里ではある。
悠久なる前に吾人は一瞬である。
一生一度齷齪の中にも、此処に来た一時は大佛前に合掌し、古えの人の心にふれ、語り合い、民族の久しきことを国土の万世なることを願い顧みつつ懐古の情を温めることは報恩の一端ともなるものか。また、後代日本を背負う若人の弁えでもあろうか。
お互いの行く末無事安泰を黙祷されよ。
飛鳥への憧憬、飛鳥への郷愁、此処に来て初めて満喫し得るものか。諸氏の心情果して如何に。 
 平成十年四月吉日 住職謹記



飛鳥寺を後にし、飛鳥坐神社へ向かう。

辻に道標と道路元標らしきが見える。



(南面)「右 スグ元伊勢」。
(西面)「右 岡寺」。
この時は“元伊勢”が何処を指しているのか不明。
後で飛鳥坐神社のオフィシャルページをチェックすると、“元伊勢”は同神社のことと分かった。
(“元伊勢”と呼ばれる場所は一ヶ所ではなく複数ある)

そしてその左に「飛鳥村道×」と刻まれた道路元標が埋もれていた。



東方向に見える鎮守の森が飛鳥坐神社。


飛鳥坐神社に参拝する。
社標には「式内大社 飛鳥坐神社」と刻まれている。

つづく。



Feb.5(Wed)05:39 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺31

蘇我入鹿の首塚を角度を変えて撮影。

【参考:乙巳の変】
Search Labs | AI による概要
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代の645年に発生した政権転覆(クーデタ)の事件です。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我氏を滅ぼしました。
発生の経緯
聖徳太子の死後、蘇我氏は権勢を強め、蘇我蝦夷と蘇我入鹿が強い権力を握りました。
蘇我氏による専横に不満を抱いた中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺しました。
蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷は自害に追い込まれました。
結果
中大兄皇子が実権を握り、天皇中心の国づくりの基礎がつくられました。
中大兄皇子は、中臣鎌足とともに政治改革「大化の改新」を実施しました。
「大化の改新」により、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わりました。
乙巳の変の古戦場は、奈良県高市郡明日香村の飛鳥宮跡です。



飛鳥寺西門跡
飛鳥寺は西暦588年につくり始められた日本最初のお寺。
塔を中心にその北と東西に三つの金堂がたっていた。
北の中金堂にあった鞍作鳥作といわれる飛鳥大仏は、いまもその位置を動いていない。
西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。
開口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。
門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた。
寺の四方に開いた門のなかでは、この西門が最も大きい。
寺の西に、飛鳥寺の檜舞台、「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。
中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出合い、645年に大化改新をなしとげた。
この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘樫丘の蘇我入鹿・蝦夷の舘をにらんでいた。
672年の壬申乱の時には広場を軍隊がうめつくした。
その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。
西門はそんな飛鳥の歴史をみまもってきたのだった。



西門跡付近から飛鳥寺を眺める。


飛鳥寺略縁起
崇峻天皇元年(五八八)曽我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は推古天皇十三年(六○五)天皇が詔して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和三年(八八七)と建久七年(一一九六)に焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永九年(一六三二)と文政九年(一八二六)に再建され今日に至っている。
現在は真言宗豊山派に属し、新西国第九番、聖徳太子第十一番の霊場でもある。



平成二十年(西暦二〇〇八年)
飛鳥大仏開眼一四〇〇年

推古天皇一三年(六〇五)日本最古の金銅丈六釈迦如来像の造立が発願され、同天皇一七年(六〇九)に開眼供養されてから一四〇〇年目にあたります。
中世の火災によって損傷されているものの、今以って元の位置に瑞座し給う日本の歴史的尊像であります。

つづく。



Feb.4(Tue)06:53 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺30

沙羅の樹 献木
釈迦が沙羅樹の林中で涅槃に入った時、その四方に各二本の高い沙羅樹があった。
それで双樹という。
東方のものを常と無常、西方のものを我と無我、南方のものを楽と無楽、北方のものを浄と不浄にたとえる。
皆、一つは枯れ一つは栄える。
釈尊が涅槃に入り終わると東西の二双樹と南北の二双樹がそれぞれ一樹となり、たれて床をおおい、木の色が白変して枯れたと言う。
平家物語に「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理」とある。
この花が咲いたり散ったりするさまは、盛んなものも必ず衰える真理を表す。



道標。境内に移設されたようだ。
「右 かぐ山法祢(ね)ん寺道」。
右側にも文字が見えるが画像では判読不明。



右隣の道標も法然寺を指している。
「右 圓光大師十番札所 香久山 法然寺」。
「左 たゑま大坂」。



祠の中に安置されていた石仏。
「右 ・・」の文字が見える。
地蔵さんの左側は目視では文字は刻まれていないように見えるが。



飛鳥寺の境内から出て西へ向かうと、「蘇我入鹿の首塚」。
「乙巳の変の時に蘇我入鹿の首が飛んできた」と伝承される五輪塔。

つづく。



Feb.4(Tue)06:50 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺29

やがて飛鳥寺に到着。
左に建つ一際目立つ建造物は「飛鳥大仏標石」。
文字の彫が深いから目立つのかも。



飛鳥大仏標石
江戸時代の寛政四年(一七九二)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻された優秀な文字で台石は飛鳥寺創建時(五八八-一四〇〇年前)の礎石を用いている。



「寛政四壬子年三月八日」の銘。


飛鳥寺 本堂。

駒札には、
 平成二十年(西暦二〇〇八年)
 推古天皇誓願
 飛鳥大仏開眼千四百年
  飛鳥寺



境内に植栽されている沙羅(サラ)の樹。

つづく。



Feb.4(Tue)06:47 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺28

飛鳥京跡苑池遺跡を北へ歩く。
画像中央上の立派な建物は天理教 岡大教会。

画像に写っている白い鳥はサギ(鷺)の仲間。(赤丸印)



左右に田圃を眺めながら、のんびりと歩く。


稲穂が黄色を帯びて、こうべを垂れ始めている。


ヒガンバナ(彼岸花)。
まだ蕾。
開花は時期的には若干早い。(この日は9月15日)



これは田圃でよく見かける。
ヒレタゴボウ(鰭田牛蒡)の名前がある。
【参考】
ヒレタゴボウ

つづく。



Feb.4(Tue)06:43 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺27

史跡 飛鳥宮跡
飛鳥宮跡は、7世紀中頃から後半に造られた宮殿遺構です。
昭和34年以来の発掘調査で、大きく分けて3時期の変遷が確認されており、王宮名は次のように考えられます。
Ⅰ期遺構  舒明天皇(在位629~641年)  飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)
Ⅱ期遺構  皇極天皇(在位642~645年)  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
Ⅲ期遺構  前半:斉明天皇(在位655~661年)  後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)
      後半:天武・持統天皇(在位673~697年) 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
見つかった遺構は、飛鳥地域の歴史に止まらず、日本の宮殿の変遷を解明する上で重要な遺構と判断され、国史跡に指定されました。
最上層のⅢ期遺構のうち、内裏に相当する内郭は一本柱列の塀で囲まれた方形区画で、正面である東西5間・南北2間の南門を入った礫敷広場には、東西7間、南北4間の前殿が建っていました。
   令和5年3月 奈良県



新しく建設された「飛鳥京跡苑池休憩舎」。


コスモスが咲き始めていた。


冷房の効いたこの休憩舎で昼食タイム。
この快適な場所で昼食したのはこれが二回目。



昼食後、飛鳥京跡苑池休憩舎を後にする。

つづく。



Feb.4(Tue)06:39 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺26

これもやや季節はずれだがフヨウ(芙蓉)の花が咲いていた。


岡寺を目指す予定だったが、リーダーから岡寺をカットすると告げられた。
この先、昼食の適地がなさそうだった。
時間は12時15分を過ぎていた。
岡寺参道の石鳥居まで戻る。



「飾り瓦」と呼ばれている。
屋根の上の“遊び心”。
椿だろうか、或いは架空の花かもしれない。



明日香郵便局の辻を北へ。


飛鳥宮跡方面へ向かう。

つづく。



Feb.3(Mon)05:53 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺25

奥の地蔵堂に何か珍しい石仏があると、観音扉を開けるFu氏と、彼の後を追う「まだまださん」(通称)。


庚申さんだが、大きく堂々としていて、これは観る価値があると思う。
構図も他では見かけないものだ。



青面金剛が邪鬼を踏みつけられている。
その下に刻まれた子供らしき(猿には見えない)が、雉のような鳥類を捕獲している?

【参考:青面金剛】
Search Labs | AI による概要
青面金剛(しょうめんこんごう)は、中国の道教思想に由来する尊像で、日本の民間信仰において庚申講の本尊として知られています。
病魔を退け、健康長寿のご利益があると信仰されています。



庚申堂を後にする。
すっかり秋となって山栗の実が生っていた。



更に岡寺参道を登り詰めると、法面に地蔵菩薩が埋め込まれていた。
地蔵菩薩の右側に「法界」。
光背の左側には「すぐをか寺 二丁」と刻まれ、道標を兼ねた石仏となっていた。

つづく。



Feb.3(Mon)05:49 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺24

岡寺参道を歩く。


「高市山 岡本寺」の境内に入る。

寶篋印塔(ほうきょういんとう)とその手前に駒札
本尊様(子安観音様)に一礼-、塔を中心にして右(時計)まわりに錫杖の輪を鳴らしながら、心願をもって廻ってください。
功徳
一.破地獄・開善堤道
一.業病平穩・天寿完遂
一.罪障消除・福徳増上



大きくて立派な宝篋印塔。


塔身の部分に石仏が刻まれている。


岡本寺を後にする。
参道の左手に地蔵堂が二宇建つ。

つづく。



Feb.3(Mon)05:45 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin

鬼の雪隠_亀石_飛鳥京跡苑池_飛鳥寺23

こちらは地蔵菩薩。


地元の牛乳なのだろう。
牛乳箱の下の方に白い文字で「TEL 507」と書かれている。
かなり古そうだ。ネット検索したらヒットした。
【参考】
金沢牧場の牛乳箱
上記サイトによると、金沢牧場は奈良県吉野郡大淀町で牛乳を製造していたメーカーで、昭和38年前後に自家製造を廃止したらしい。



こちらの祠にも地蔵菩薩が祀られている。
祠の軒、瓦が痛んでいる。



地蔵菩薩をズーム撮影。


これは琺瑯(ホーロー)看板。
主に大和の酒造メーカーの銘酒が並んでいる。
中には廃業した酒蔵もあるようだ。

つづく。



Feb.3(Mon)05:41 | Trackback(0) | Comment(0) | ウォーキング・散策 | Admin


(1/179page)
>1< 2 3 4 5 6 7 8 9 10 End