京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)20 |
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| 豊国神社・唐門。国宝。
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| 豊国(とよくに)神社の駒札。
豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら))には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成(ごようぜい)天皇より正一位(しょういちい)の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(一八九八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。 京都市
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| 秀吉の馬印「千成瓢箪」にちなんだ瓢箪形の絵馬。
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| 「豊國大明神」と記された扁額。扁額の後、欄間に見える鶴の彫刻は、桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した伝説的彫刻家、左甚五郎(ひだりじんごろう)の手によるものとされている。鶴はあまりに良い出来栄えであった事から、完成させると飛び立ってしまいかねず、あえて目を入れなかったという―笑。
Wikipediaによると、 左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。
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| 唐門に使われている部材は全て欅で、出世を象徴する「鯉の滝登り」など見事な彫刻を観ることが出来た。(唐門は拝観自由)
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2月24日(水)18:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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