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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年2月26日を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)27

「天保五甲午歳」の銘のある石燈籠。正面には「御寳前」、社殿に向かって左側面には「×月吉日」と彫られていた。


拝所とその奥に幣殿、本殿と続く。


拝所に見られる懸魚(げぎょ)の鳳凰。(中央)


同じく拝所の柱の獅子。


本殿脇には狛犬ならぬ“狛猿”。奉幣(ほうべい)猿と呼ばれている。


2月26日(金)20:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)26

やがて大和大路通は泉涌寺道と出合って三叉路となり、ここ東山泉小中学校西学舎の南側の道で終わる。
「京の古道を歩く」(著)増田潔 光村推古書院によると、江戸時代の地誌「山城名跡巡行志」からの引用で、昔の街道(大和大路)は一町東にあるとしている。
国文学研究資料館

泉涌寺道を西へ歩き左折(南)。ほどなく左手に瀧尾神社の鳥居を見る。

瀧尾(たきのお)神社

 瀧尾神社の創建、由緒ははっきりしないが、天正14年(1586)10月、豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴い、当地に移ってきたと伝える。また、当社は、泉涌寺の僧の守るところであったともいわれる。
 京の豪商下村家は、当社を崇敬すること篤く、元文3年(1738)以降、数度にわたって社殿の修復を行ってきた。現在の社殿も下村家の援助により、天保10年(1839)から翌11年にかけて造営されたものである。
 本殿は、「北山貴船奥院御社」旧殿を移建、一部改築したもので、その前に幣殿、拝所、東西廊が並び、これらの建物がそれぞれ屋根を錯綜させながら、変化に富んだ空間を構成して独特の社殿景観を形成している。また、各社殿に施された豊富な彫刻装飾は、京都市内では珍しい。
 当社は、本殿、拝殿、絵馬舎、手水舎など一連の社殿が境内にまとまって現存し、江戸時代後期の中規模神社の形態を知るうえで貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
    京都市



拝殿。


絵馬堂に奉納されていた額。
「嘉永二年 己酉 正月吉日 松榮講」、「油小路通山田 石川屋儀兵衛」の銘がある。



こちらの店舗の絵には暖簾に大丸の印が入っている。


案内はなかったが、大丸京都店のビルと見られる。

瀧尾神社と大丸



2月26日(金)20:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)25

塩小路通を西へ少し歩いて大和大路通に出合いこれを左折。(南)
やがて大和大路通は東海道本線で寸断されるので陸橋を渡る。



東山区今熊野池田町、東海道本線に架かる陸橋上から東方向を撮影。
右側に見えるのは大谷中高等学校の運動場。



この先、東山泉小中学校の運動場に「伏水街道第一橋」が復元されていた。
“伏見街道”を昔は“伏水街道”と呼んでいたようだ。

伏水街道の橋 徘徊の記憶によると、東山山麓から流れ出て鴨川にそそぐ河川が伏見街道に交差する箇所に4本の橋が架けられ、北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と呼ばれていた。現在、一ノ橋と二ノ橋の川は暗渠となり元の橋の位置と異なった場所に親柱が保存されている。三ノ橋と四ノ橋は伏見街道の橋として使用されている。いずれの橋の親柱にも伏見街道ではなく“伏水街道”とある。



尚、手持ちの資料では、一橋(いっきょう)小学校となっていたが、小中一貫教育の方針により東山泉小中学校となった。


付近の地図では、まだ一橋小学校と表示されている。


2月26日(金)20:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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