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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年2月23日を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)19

鐘楼の天井画。天女のように見える。


方広寺・本堂。この日は拝観せず。


東方向へ歩き、方広寺大仏殿跡へ向かう。

方広寺大仏殿跡

 天正13年(1585)年、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595年)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598年)には秀吉もこの世を去ってしまいます。その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17年(1612年)に大仏を事実上完成させました。しかしその後鋳造された梵鐘の銘文<国家安康 君臣豊楽>が、徳川家を呪詛するものであるとして徳川家康が異議を唱えたために、大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798年)の落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約260m、東西約210mと推定されます。大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。仁王門跡から西へのびる道が正面通と呼ばれることも方広寺に由来しています。なお、 「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会(ほうえ)である方広会(ほごえ)にちなむといわれています。



付近は大仏殿跡緑地となっている。


2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施され、発見された遺構は地下に埋め戻して保管し、その上に小舗石を置いて地表に明示している。


2月23日(火)20:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)18

「防火用水」。


やがて大和大路通は道幅が広くなり、左に方広寺の大きな石垣を見る。


「大佛殿石垣」の石碑。


有名な方広寺の梵鐘。東大寺、知恩院と合わせ日本三大名鐘のひとつとされるが、まずその大きさに驚いた。


豊臣家滅亡を招いたとされる梵鐘の銘文にチョークのようなものでマークしてある。
「国(こっかあんこう)」「臣豊(くんしんほうらく)」が徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる。



2月23日(火)20:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)17

本堂の軒下、極彩色の装飾。韓国のお寺を連想する。


六波羅蜜寺を後にする。六波羅蜜寺のある東山区轆轤町から三盛町、門脇町、池殿町へと歩く。

平家ゆかりの町名によると、これらの町名にはそれぞれ、町名となった由緒があるらしい。
三盛町・・・平清盛・教盛・頼盛の三兄弟の邸宅があったと伝わる。
門脇町・・・平教盛邸があった場所。教盛の邸宅は六波羅の惣門の角に存在していた。その事から教盛は門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。
池殿町・・・平清盛の異母弟・平頼盛の邸宅があった場所。頼盛の邸宅は池殿と呼ばれていた。




「五軒ういろ」の店があった。以前、このお店で「ういろ」を買ったことがある。家族にも好評だったので、買おうとして立ち寄った。


ところが、お店の中に入って何回も「ごめん下さい」を繰り返したが、お店の人が出てこない。なので諦めて店を出た。呼び出し鈴はなかったように思う。残念。


玄関先に国旗掲揚した民家。この日は建国記念日。最近、このように日の丸を揚げる光景は非常に少ない。


2月23日(火)20:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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