和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡14 |
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| 石上銅鐸 (弥生時代後期) このあたりは、明治16~17(1883~1884)年に相次いで弥生時代の銅鐸が出土したとされる場所です。 地元住民が畑を耕していた際に偶然見つかったもので、出土した銅鐸2個は現在いずれも宮内庁が所蔵しています。 銅鐸研究史上著名な資料で、「 石上銅鐸 」として知られています。 大正12年(1923)におこなわれた発見者への聞き取り調査によると、明治16年(18863)3月頃に見つかった1号銅鐸は、現在地付近から北に「約二十六尺(約8m)」の場所に、地表から「一尺五六寸(約50cm)」の深さに埋められていたとされています。 また、およそ一年後の明治17年(1884)年4月6日に見つかった2号銅鐸は、1号銅鐸の見つかった場所から「北東北約五十尺(約15m)」の場所に、地表から「約二尺(約60cm)」の深さに埋められていたとのことです。 1号銅鐸・2号銅鐸ともに弥生時代後期初頭(約2000年前)に位置づけられており、銅鐸が打ち鳴らすものとしての機能を失い、次第に形骸化・大型化した祭祀具へと変化しつつある段階のものです。 いずれの銅鐸にも流水文が施されており、2号銅鐸びは特徴的な二人の人物表現もみられます。 銅鐸は弥生時代の青銅器文化を代表する遺物です。 全国で約500例ほどの出土例の多くは集落から離れた丘陵や山の斜面で見つかっており、石上同多雨もその一例として数えられています。 平成22(2010)年12月 天理市教育委員会
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| 暫く歩くと、右手に鳥居が幾つも並んでいた。
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| 社号標には「正一位 平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれている。
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| まるで伏見稲荷の参道のようだ。
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| これは道標。 「左 正一位 平尾 姫丸 稲荷大明神」。 道標はこの場所へ移されたようだ。
つづく。
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4月17日(水)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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