山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月7日を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)51

京都トレイルの道標が現れる。「東山F27」となっている。
東山コースの伏見・深草ルート(標識F1~F35、9.5km)は、京阪・伏見桃山駅から大岩山を経て伏見稲荷大社に至る新しいルートで、2014年開設された。
奥社で東山コース(標識東山1~74、24.5km)と接続している。
尚、私は東山コースの伏見・深草ルートを踏破していない。

コース & 見どころ〔京都一周トレイル〕



やがて右側に「三施福神 深草聖天(嘉祥寺)」と書かれた案内板を見る。この先、右折。


寺標。「日本最初 歓喜天 深草嘉祥寺」。


左の寺標には「三ヶ所随一 歓喜天」と彫られているようだ。
それにしても、右側の掲示板は手入れがされていない。



門が開いていたが、この日は時間の都合で立ち寄らず。


3月7日(月)21:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)50

霊光寺を左に見て歩くと、「元政上人舊跡 草山瑞光寺」(げんせいしょうにんきゅうせき そうざんずいこうじ)と彫られた道標が現れる。

京都市情報館によると、元政(1623~68)は、彦根藩士であったが出家して、詩人として有名になった。明暦元(1655)年,草庵(竹葉庵)を建て、父母と共に住し、深草山瑞光寺と称した。その墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本立てただけの簡素なものである。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開される。この石標は元政の旧跡瑞光寺を示すものである。

元政上人 - 瑞光寺



瑞光寺の駒札。

瑞光寺(元政庵)(ずいこうじ)(げんせいあん)

 深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗の寺である。この地は、もと極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していたが、明暦元年(一六五五)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれている。
 上人は、京都に生まれ、俗名石井吉兵衛と称し、彦根藩に仕えた武士であったが、後に出家してここに草庵を建て、父母を引き取って孝養に努め、学者、文人、又は孝子として知られるようになった。寛文七年(一六六七)、母親の死の直後に四六才で没した。上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。
 本堂寂音堂(じゃくおんどう)は、丸みを帯びた萱葺屋根の建物で、寛文元年(一六六一)に建立されたものである。
 堂内に安置する本尊釈迦如来座像は、中正院日護の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められている。
 毎年三月十八日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開される。
                京都市



この日は時間の都合で瑞光寺には立ち寄らず、嘉祥寺、十二帝陵へと向かう。


道標に見える「弘法の滝」750mとなっている。「白菊の滝」、「青木の滝」など稲荷山にあるお滝行場の一つとみられる。

深草トレイルMAP



石碑のようなものが見えたので立ち寄ったが読めない。
「摂僧界西北角・・・」。
「摂僧界」とは清浄な領域と普通(もしくは不浄)の領域とを区切る結界のことだろう。

Wikipedia結界



3月7日(月)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)49

宝塔寺を後にする。道標。「右 七面瀧 (本)熊鷹瀧 / 道」と彫られている。
七面瀧と熊鷹瀧は下記サイトに紹介されている滝のようだ。
稲稲荷山の「お滝」について
七面瀧
(本)熊鷹瀧

更に下記のサイトにも稲荷山の滝について詳しく紹介されている。
あなたの知らない伏見稲荷山



手持ちの絵図には七面ノ滝、熊鷹本滝として記載されていた。
「伏見稲荷全境内名所圖繪」吉田初三郎 鳥瞰図 1925年(大正十四年) 複製
これらの滝の場所と、道標が設置されていた場所との位置関係が一致する。



暫く歩くと、このような手作りの看板があった。「月とうずらの里」。
この深草の地が昔は月やうずらの名所として知られていたようだ。うずらとは鳥のことだろう。



「深草トレイル 自然観察」の案内板。


そしてこちらは「歴史探訪」バージョン。


3月7日(月)21:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

紀州街道②(井原里_樽井)

2016年3月6日(日)は、おおばこの会の別会、こばこの部に参加した。
紀州街道の第二回目で、南海本線・井原里駅から樽井駅まで歩いた。参加人員は目測18人程度。

紀州街道は大阪と和歌山を結ぶ主要街道。
江戸時代は紀州藩や岸和田藩の参勤交代の街道として使われた。
区間は大阪の高麗橋から和歌山城まで。(明治36年大阪府誌)

この日歩いたのは「孝子越え」と呼ばれる、泉佐野市の鶴原で紀州街道から分岐して、田尻、樽井、尾崎、淡輪と海沿いを進み、孝子峠を越え和歌山に至る道の一部。

一方、紀州街道の本道は、泉佐野市の鶴原で「山中渓」を越えて紀ノ川沿いに和歌山に至る。

街道歩き_紀州街道TOP

コース概略
南海本線・井原里駅_住吉神社_泉佐野ふるさと町屋館_いろは蔵_青空市場_松の公園(泉佐野市営松原団地住宅内)・昼食_羽倉崎夷神社_田尻漁港市場_田尻歴史館_春日神社_日限寺_南海本線・樽井駅

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。井原里駅から樽井駅まで。



3月7日(月)08:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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