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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月12日を表示

京の古道⑥竹田街道_大和街道1

2016年3月10日(木)は、京の古道歩きシリーズ第6回として、竹田街道と大和街道を歩いた。
(京都駅から近鉄・大久保駅までの区間)
参加者は主催のN氏、T氏、M氏、K氏と私の5人。

日本最初の鉄道は、明治5年9月の新橋と横浜間だが、
日本最初の電車は、明治28年2月1日、京都電気鉄道(京電)の伏見線で、東洞院塩小路から伏見油掛町までを3銭で営業した。この電車の路線が、現在の竹田街道の道筋になっている。
また、今回歩いた大和街道は観月橋から近鉄大久保駅までだが、この区間には、
かつて巨椋(おぐら)池と呼ばれる大きな池があり、現在のように陸続きとなったのは、秀吉の大規模な築堤工事による。現在も地名として残っている、向島、填島、蛭子嶋、大八木島、上島などは、文字通り巨椋池に浮かぶ島(中州)だった。

増田 潔『京の古道を歩く』

巨椋池 - Wikipedia

よって、後半歩いた大和街道は歴史的遺物は少なく、堤沿いの干拓(かんたく)地には田んぼや畑が広がっていた。

コースタイム
9:20京都駅9:40_9:52東洞院通塩小路_9:54猿寺(正行寺)前_9:58新福菜館本店前_10:00東海道線に架かる高倉跨線橋を渡る_10:20宇賀神社参道(道標)_10:29鴨川に架かる勧進橋を渡る_10:32稲荷さんけい道(道標)_10:50東高瀬川に架かる上三ツ杭橋を渡る_10:59竹田出橋前_11:03車橋前・休憩11:10_11:18城南宮参詣道(道標)_11:23加賀屋敷児童公園・トイレ_11:31七瀬川に架かる蓮心橋を渡る_11:32車輪形石11:34_11:51濠川(ほりかわ)に架かる枡形橋を渡る_11:52伏見中学校前_11:583匹のねこ・昼食12:48_12:56竜馬通り_12:59宇治川派流に架かる蓬莱橋を渡る_13:08弁天浜(駒札)_13:08長建寺前_13:09京阪本線の踏切を横断_13:13近鉄京都線の高架下を潜る_13:15京阪宇治線の踏切を横断_13:19宇治川に架かる観月橋を渡る13:22_13:24明治天皇御駐輦所製工場址(石碑)_13:42近鉄京都線向島駅前_13:59巨椋の水路(案内板)・休憩14:16_14:31宇治市槇島三軒家集会所前_14:33府道69号線に架かる陸橋を渡る_14:36蛭子嶋神社お旅所14:38_14:44巨椋神社14:55_14:57製茶問屋街_15:04井川遊歩道を横断_15:08府道69号線小倉西山(交差点)_15:10小倉小学校前_15:17宇治市西消防署伊勢田消防分署前_15:28広野町東裏(交差点)・宇治屋の辻の道標_15:32JR奈良線・新田駅前_15:34皇大神宮社前_15:36JR奈良線の高架下を潜る_15:38広野公民館(宇治屋の辻の旧道標)15:42_15:54近鉄京都線大久保駅

画像はこの日歩いたGPSログを表示している。京都駅から近鉄大久保駅。



京都駅中央口(北側)を出て塩小路通(しおこうじどおり)を東へ。一つ目の南北に通じる道が東洞院通(ひがしのとういんどおり)。竹田街道の起点はこの辺りになる。
画像に写っている案内板「わがた地蔵 さる寺・正行院」へ向かう。
但し、N氏によると境内には入れないとのことだった。



通称・猿寺に到着。案内板では「山門からおはいりください」とある。しかし、結局、境内には入られなかった。事前の問い合わせや予約が必要のようだ。


左の石は、旧東海道を歩いた時に、車石広場(山科区日ノ岡)で見た車石と同じに思えた。
右の石柱には「地蔵」と彫られているが、その右上の文字は読めない。

※地蔵堂→地蔵に修正



輪形(わがた)地蔵

七条通東洞院から伏見に至る竹田街道を通る牛馬車の通行を楽にするために車の通る下に石を敷きその石を村人は輪形の石とよんでいました。ある夜の夢枕のお告げから村人がその輪形の石の1つを掘り起こしてみるとそれは立派なお地蔵様でした。村人はそのお地蔵様を輪形地蔵さまとよび、車馬の危難を救い交通の安全をお守りくださるご利益があると敬いおまつりしてきました。
        輪形地蔵尊護持会


旧東海道で見た車石を、ここでは輪形(わがた)の石と呼ぶらしい。



3月12日(土)20:42 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)64

桃陵市営住宅団地前に到着。

桃陵(とうりょう)団地の歴史

 伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地帯であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町と伏見港を整備してからである。
 江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入口と港を監視する位置にある。
 明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていた。第二次世界大戦終了後、米軍に接収されていたが日本に返還された後、市営住宅が建設され、今日にいたっている。下の写真は奉行所の石垣と明治時代に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣である。また、この掲示板の上に使用されている笠石は陸軍時代の門に使用されていた石である。
  平成2年10月
                京都市



伏見奉行所跡の石碑。側面には昭和43年11月 京都市と彫られていた。
先の説明書きによると、明治維新の時、幕軍のたてこもる伏見奉行所は官軍の攻撃により焼け落ちた。



指月伏見城(しげつふしみじょう)をイメージしたデザインとなっている桃陵団地。


突き当たりの讃岐町の三叉路で左折。
近鉄京都線の高架下を歩く。



高架下に続く伏見桃山商店街。
この先50mほど歩いて桃山御陵前駅に到着。近鉄電車に乗って帰宅した。おしまい。



3月12日(土)20:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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