山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年3月を表示

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)42

石峰寺、境内の様子。


総門を出たところからの眺め。少し高台にある。


石峰寺を後にして更に南へ歩き、宝塔寺に到着。


「周辺の案内図とハイキングコース」の案内板。深草稲荷保勝会が設置。


宝塔寺の駒札。

宝塔寺(ほうとうじ)

 深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗の寺院である。
 寺伝によれば、藤原基経(もとつね)が発願し、昌泰(しょうたい)二年(八九九)に藤原時平(ときひら)が大成した極楽寺(ごくらくじ)に始まるといわれる。当初は真言宗であったが、徳治(とくじ)二年(一三〇七)に住持(じゅうじ)の良桂(りょうけい)が日蓮の法孫・日像(にちぞう)に帰依して、日蓮宗に改めた。
 また、日像が京都に通じる七つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の一つが、当寺の日像廟所に奉祀されたことにちなみ、寺名を宝塔寺と改称したとされる。本堂(重要文化財)は、江戸初期の一六〇八年の創建で、本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右に日蓮・日像の像が祀られている。行基葺(ぎょうきぶき)の多宝塔は永享(えいきょう)十年(一四三八)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(しきゃくもん)(総門)とともに、重要文化財に指定されている。
 境内には、肺病治療の名医で、肺病平癒の信仰を集める宗有(そうゆう)とその妻妙正(みようしょう)の墓があり、夫婦塚と呼ばれている。また、本堂背後の七面山(しちめんさん)には、寛文六年(一六六六)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祀る七面宮があり、そこからの眺めは素晴らしい。
                京都市



3月3日(木)20:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

斑鳩町サイクリング(法輪寺_斑鳩文化財センター)

2016年3月3日(木)は、Tu氏と自転車で斑鳩町の法隆寺方面をサイクリングした。

出発地点は近鉄富雄駅西口。富雄川沿いに走り、慈光院の手前で右折。法起寺前で休憩した。その後、法輪寺へ向かい、境内を散策。
昼食は法隆寺駅北口の「レストラン若竹」。
午後から藤ノ木古墳を見て、斑鳩文化財センターを見学。再び富雄川沿いに走って帰宅した。

画像はこの日自転車で走ったGPSログで、近鉄富雄駅西口から阪奈宝来(交差点)までを表示している。



斑鳩文化財センターのパンフレット。
2010年(平成22年)開館。東日本大震災が2011年なので1年前。
この施設を訪れたのはこれが初めて。入館無料。



「レストラン若竹」の名刺。
リーズナブルで美味しい洋食店『レストラン若竹』@斑鳩町



「レストラン若竹」の昼食。ミンチカツ定食、税込720円。
レストランの名刺にもあるが、“町の洋食屋さん”というイメージがピッタリ。
ボリュームがあって、がっつり食べたい人や、学生など若い人向きかな。
この日の客層でも、私達のようなシニア層は少なかった。



3月3日(木)20:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | サイクリング | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)41

「ぬりこべ地蔵」からまっすぐに南へ歩くと、左手に石段が現れ「石峰寺」の入口に到着。


石峰寺の駒札。

石峰寺(せきほうじ)

 百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。宝永年間(一七〇四~一七一一)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和六十年に再建されたものである。
 本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。
 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶椀子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。
               京都市



参道の石段を登ると、黄檗宗ではよく観られる竜宮造りの総門が現れる。


総門の左手、梅の花が見頃となっていた。花のつきが少ないように見える。


総門の左下に立ててあった注意書き。「五百羅漢の写真撮影とスケッチは禁止しております 石峰寺」
このことは事前に知っていたが、事実を確認する為に、わざわざ石段を登ってここまでやって来た。他の人は石段の登り口で待っていた。
このお寺は拝観料を支払って入山するが、それでも撮影禁止となっている。



3月2日(水)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)40

「ぬりこべ地蔵」と彫られた石柱が立つ。


涎掛けのほかに、今風のバンダナを召されている。


足の爪先が磨り減っているように見える。
そして、撮影した時は気付かなかったが、画像左に見える封書。
このお地蔵さんは歯痛にご利益があって、全国から歯痛の平癒を祈る封書やハガキが届いていた。

それにしても、“ぬりこべ”とはどういう意味なのか、気になったのでネット検索してみた。

伏見ぶらぶら15「伏見のお地蔵さん」によると、「塗込めの堂宇に安置されていたから」「塗込めをさらに病気を封じ込めるの義に解し」たとのことです。(竹村俊則・「昭和京都名所図絵」より)
「京都伏見歴史紀行」(山本眞嗣著)によりますと「塗込め」とは、貴族の邸宅の寝室のことをいい、四周を土塀で塗り込んで、その中に念持仏を祀る風習があったとこのことで、悪鬼を払って安らぎを得るという意味だそうです。



有野山墓地を後にする。
京都市の広報板。稲荷小学校の催し案内が何枚か掲示されている。



道標。消えかけているが、左、「深草墓地 / ぬりこべ地蔵尊」方向から来た。右、「石峰寺」へ向かう。


3月2日(水)18:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)39

摂取院(せっしゅいん)の地蔵堂に祀られていた腹帯(ふくたい)地蔵尊。
通常は非公開のようだが、この日はどういうわけか拝することが出来た。

京都市伏見区のHPによると、慶長13年(1608)に建立された浄土宗のお寺。地蔵堂に祀られる本尊は、平安時代末期に造られた寄木造りの腹帯地蔵(地蔵菩薩坐像)である。当初、江戸時代の製作と考えられていたが、平成2年の修理において、体内から墨書の銘文が3種類発見され、1番古いものは平安時代末期の製作と判明し、仏教美術史上の貴重な資料発見とあって注目を浴びた。



腹帯地蔵尊の横に置かれた祠に祀ってあったが、お地蔵さんだろうか。


腹帯地蔵尊から少し引き返し、東へと続く道を歩く。昔からある道に見える。


突き当たりの南北に通じる道は、伏見稲荷大社から石峰寺へ抜ける道。
突き当たりの三叉路を右折(南)すると墓地(有野山墓地)が現れた。



一ヶ所に集められた石仏や無縁仏。


3月2日(水)18:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)38

JR稲荷駅前に建つ鳥居。こちらの方がメインの参道。
正面は稲荷山。



稲荷駅の敷地内に建つレンガ造りの建物。「ランプ小屋」と呼ばれている。


旧東海道本線の説明板。

Wikipediaによると、ランプ小屋(ランプごや)は、鉄道の客車及び駅務や保線用の照明用ランプ、燃料等を収納していた倉庫のこと。ランプ庫、危険品庫と呼ばれることもある。危険物を取り扱うことから堅牢な煉瓦造りとなっている。明治時代に建設された旧日本国有鉄道等の主要駅には一般的に存在したが、用途の消滅や駅の増改築に伴い急速に姿を消していった。明治時代の木造客車の車内照明には、灯油ランプが使われていた。夕暮れ時に停車する主要駅で、係員が各客車の屋根に上がり、作業窓からランプをつり下げる仕組みとなっていた。このランプと燃料を収納するのに使われた小屋がランプ小屋と呼ばれるようになった。明治時代末期の頃から、車軸発電機による電気照明が普及。車内照明用ランプの利用はなくなり、業務用の灯油カンテラと燃料の収蔵に用いられるようになった。カンテラ専用の収納スペースとしては、過剰な大きさであることから、大正時代以降に新設されたランプ小屋は少ないものと考えられている。現代では、灯油カンテラの使用もなくなり、一般の倉庫として使用している駅が多い。



JR奈良線の踏切のすぐ傍に覆屋があったので立ち寄った。
地蔵尊と彫られた常夜燈が立っている。
向かって左側面に天保十五辰八月の銘あり。



腹帯(ふくたい)地蔵尊と彫られた石柱。


3月1日(火)19:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)37

分岐に立っていた道標と地図。この先、階段を登らずに、斜め右(南西)へ歩き、伏見稲荷大社へと進む。地図には10分と表示されている。
右折(西)へ進むと京阪鳥羽街道駅となる。



伏見妙見寺の前を通過。


「稲荷あんしん あんぜんステーション」の看板がかかっていた。
交番のように見えたが元交番を有効に利用されているようだ。

皆さんの力で犯罪件数が半減!



この先、京阪伏見稲荷駅からの参道に出合う。


伏見稲荷らしい神具や土産物が並ぶ。


3月1日(火)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

京の古道⑤伏見街道(三条_観月橋)36

仏殿。(本堂)


三門。


三門(国宝)

     室町時代 応永十二年(1405)

 東山三十六峰「恵日山」の麓に聳える国宝(指定:明治30年12月28日)「三門」。一般的には「山門」と表記され、寺域の入口(境)を指す。しかし、東福寺では、「三つの門:三門」と表記している。この意味は、「三解脱門」の略で、涅槃に達するための通らねばならない門とされる。三つの門は「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」である。大きさは、五間三戸、二階二重門、入母屋造り、本瓦葺き、左右に階段を覆う山廊を有す。構造的には大仏様(天竺様)であるが、視覚的には禅宗様である。三門正面二階には北朝第四代将軍足利義持の筆である扁額「玅雲閣」が掲げられている。「妙」は「女」偏が一般的ですが、額は「玄」の偏を用い、本来の「玄」の意味である「奥深い道理」の意味を添え「妙」の意味の「真理・美しい」の意味を強化している。大きさは小さく見えるが畳三畳分あり、又、力強い筆運びである。二階内陣中央に35歳と云われる宝冠釈迦如来坐像、左前に月蓋尊者、右前に善財童子、両側に十六羅漢が安置されている。
 天井・柱には極彩色の迦陵頻伽(極楽に住む人面鳥身の架空の鳥)や飛龍(極楽に住む応龍)を描き、又金襴巻や牡丹唐草等で天上界を表している。天上界は悟りに達した精神界究極の世界を現わしていると言える。東福寺の僧である兆殿司・寒殿司の筆にて描かれ、三門内陣に心の存在を感じさせる空間を創造している。大屋根の四隅の角柱は、地震による三門の傷みを天正13年豊臣秀吉が行った大修理の際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれている。



東福寺の境内を歩き、六波羅門を経て南へ歩く。南明禅院前を通過。
「徳川家康公正室旭姫墓在院」の石柱が立っている。

「家康公史跡めぐり・南明院」



「南明町 住宅案内図」。この先の分岐を南西方向へ歩く。


3月1日(火)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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