和邇下神社_伝・山辺の道_森本寺山遺跡21 |
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| 石段を登る。
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| 和邇下神社拝殿。
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| 和邇下神社(本殿重要文化財) 神護景雲三年(七六九)東大寺領のの櫟庄の水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。 和爾下神社古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。 この治道社(春道社とも書く)の祭神は素盞鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。 明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。 今の社殿は、三間社流れ造り、檜皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。【一部割愛】 天理市教育委員会
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| 西側から続く別の石段を降りて右(北)に向かう。 「大和國柿本寺跡」と記された看板が落ちていた。
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| 下記、天理市観光協会のサイトによると、 撮影した画像は石棺の蓋。
【参考】 柿本寺跡
柿本氏の氏寺 柿本寺(しほんじ)は、名前の通り、柿本氏の氏寺です。 建武4(1337)年、北朝軍が天王社(和爾下神社)や柿本寺に陣取って南朝軍と戦ったとの記録や、その前後に描かれた柿本宮曼茶羅(まんだら・現在は奈良市学園前町の大和文華館が所蔵。重要文化財)が伝わっています。 寺は室町時代までに西へ約400m離れた、現在の櫟本小学校西側に移転しています。 江戸時代までは代々、学僧が出、和歌や茶の湯などが親しまれまれていましたが、明治初年に廃寺となりました。
つづく。
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4月19日(金)06:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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