高槻初詣と摂津峡20 |
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| 「西方浄土極楽入口」からは急坂となり大きく下る。クルマでお参りする時はこの道を登ることになる。この日は霞んでおり遠望は利かず。
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| 高槻市のマンホールの蓋。
※日本マンホール蓋学会、高槻市のマンホールのサイトによると、
高槻市の木、ケヤキと市の花、ウノハナ、摂津峡をデザイン。
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| 神服(しんぷく)神社に到着。
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| 神服神社のご由緒。
平安時代以来の延喜式内の古社素盞鳴命・火之速日命・麻羅宿禰の三神を祭る。 この地和名抄にいわゆる「服部郷」で諸国の織部の部民を統括した服部連の居住地である。傳承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部氏の氏の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(一〇世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。 維新以前、神佛混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同五年には郷社に列した。 また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝六年(一六七八)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの。祭礼は毎年五月五日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。 氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む旧服部村一円にわたっている。
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| 拝殿。
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1月16日(土)21:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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