山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 

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沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳13

ようやく山中から抜け出す。
南方面の視界が得られた。
ここから歩く方向が南→東に変わる。



イノシシなど農作物に被害をもたらす動物を捕獲する仕掛けが置かれていた。


そして、登山道に設けられた獣害柵の扉を開閉する。
このあたりから行政区が橿原市から明日香村に変わる。



別名ビナンカズラ(美男葛)とも呼ばれているつる性の木。
サネカズラ



「←牽牛子塚(けんごしずか)古墳」を示す道標。

つづく。



3月10日(日)06:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳12

「益田岩船→」を示す道標。


登山道脇で、ヒラタケと見られるキノコが生えていた。
かなり大きく、食べ応えがありそう。
持ち帰られたので、Tリーダー宅の夕食のおかず!?
ヒラタケ



木漏れ日の中、山中を練り歩く。


倒木も見られたが、歩くのに支障はない。


後続の人達の姿が見えないので、ここで小休止。
列を縮める。

つづく。



3月10日(日)06:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳11

益田岩船を後にする。

画像は少し離れた距離から西面を撮影。



この後、牽牛子塚古墳を目指して山中を歩く。


「牽牛子塚古墳→」を示す道標。


落ち葉が積もって滑りやすくなっている。


周囲は竹が蔓延り、放置竹林の様相となっている。

つづく。



3月9日(土)06:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳10

巨大な“岩船”が現れる。
圧倒的!

説明書に記載があった(一辺数十センチの)「格子状の溝」がよく目立つ。(赤四角)

【説明書】
「下半部には石の整形のための仕事を推定される格子状の溝が刻まれている。
この格子状の溝は、東西側面や南側面にもみられる。」



ここにも簡単な説明書があるが、先程の内容と重複するので省略。


角度を変えて撮影。
人も一緒に写っているので、岩船の大きさがわかると思う。



頂上部には浅い溝状の切り込みと、東西に二つの方形の孔が穿たれている。
(赤四角)



危険なので、(岩の上には)登らないで下さい。
との注意書きがあるが、せっかく現地まで足を運んだのに、頂上部の孔などが見られないのは残念。

つづく。



3月9日(土)06:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳9

石船山のほぼ頂上を目当てに登る。
一部、険しいところがある。



途中、絶滅危惧種の表示があった。
イチヤクソウ(一薬草)がそれ。

イチヤクソウは低山の林中に生育。
花期は6-7月。
絶滅危惧種だけに頻繁に見られるものではない。
【参考】
イチヤクソウ



多年草(宿根草)なので、一度、見つけたら、毎年同じ時期に花が開花することになる。
また、環境にもよるが、すこしずつ株が大きくなる。



切り通しのようなところに登山道が続く。
画像は振り返って撮影。



尾根筋に乗る。

つづく。



3月9日(土)06:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳8

史跡 岩船
          昭和五十一年三月三十日指定
奈良盆地の周辺に位置する越智岡山塊の一支峯、石船山の頂上近く、標高約一三〇mの地点に所在する花崗岩の巨大な石造物で俗に益田岩船と呼ばれているものである。
その構造は、東西の長さ一一m、南北の長さ八m、高さ(北側面)四・七mの台形を呈し、頂部の平坦面から東西両側面の上半部にかけて東西の方向に、幅一・八m、深さ〇・四mの浅い溝状の切り込みがあり、その南側縁には上から約〇・一四mのところに幅〇・一三mの段が造り出されている。
溝内には中央に一・四mの間隔をおいて西よりと東よりの部分に二つの方形の孔が穿たれている。
西の孔の大きさは上口部で東西一・五m、南北一・六m、深さ一・三m、東の孔は東西一・六m、南北一・六m、深さ一・三mとほぼ同じ規模を持ち、ともに孔底の四周の壁の直下には幅、深さともに六㎝の小溝がめぐる。
溝内の東西両孔の中間部と孔の両側の平坦部はそれぞれ高さが異なり、孔の中間部に対し東側は〇・一二m、西側は〇・三六m低くなっている。
また、この三つの平坦部や東西両孔の底面は東西方向には水平であるが南北方向ではいずれも南に傾斜しており、岩船全体がやや南に傾いているものと考えられる。
岩船の側面は、全貌をあらわしている北側では上半部が平滑に仕上げられているが、下半部には石の整形のための仕事を推定される格子状の溝が刻まれている。
この格子状の溝は、東西側面や南側面にもみられる。
なおこのような格子状の刻みは、明日香村川原所在の亀石にもみとめられるものである。
この巨大な石造物については、古くから弘仁十三年この地に築造された益田池の碑の跌(台石)とする説があり、また最近では墳墓説や占星台の基礎とする説などが提起されている。
その用途や築造年代については今後の研究にまたねばならないが、いずれにしても明日香地方に分布する特異な石造物のなかでも最大の規模をもつものとして保存の必要がある。
なお、益田岩船の名称は、江戸時代の地誌類にみられるものであるが、この岩船が益田池に関連するものとの想定にもとずく呼称と思われ、現在の地名によるものではない。
 昭和六十二年三月     奈良県教育委員会



急階段だが、手摺が完備されており、ゆっくりと登る。


粋な計らいだが、ここへ戻ってこないので使わなかった。


手摺がなくなり、階段も多少登りにくくなってくる。
また、落葉で滑りやすい。

この先、右方向に踏み跡が続く。



ところが、正面に岩場があったので、少し立ち寄ってみた。
この後に見る、岩船に使われている石と同じなのか興味があったから。
もし、そうだとしたら、岩船の石は他から運ばれて来たのではなく、この付近で採石されたことになる。

つづく。



3月9日(土)06:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳7

鉄柵越しに石室の中を覗き見することが出来た。

しかしながら、下記サイトの動画を視聴した方がわかりやすい。

【参考:沼山古墳】
「沼山古墳」奈良県橿原市



沼山古墳を後にする。
来た道を途中まで引き返して右折。(北)
すると橿原ニュータウンと呼ばれる集合住宅地に出た。
ここには立派な道標が完備されており、やはり我々は裏側からアクセスしたようだ。
道標によると次の目当てである益田岩船まで0.2kmとなっていた。



白橿近隣公園トイレで小休止。
トイレはキャパの関係で、結構、時間が掛かった。

コースは車道を横断し階段を登って右折。



すると、左手に登り口がある。
入口ではウサギさんが迎えてくれる―笑。



ここが「史跡 益田岩船」への取り付き。

つづく。



3月9日(土)06:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳6

ここまで沼山古墳の道標や案内板がなく、一寸不安になる。
・・・裏道から入って来たからかも!



茂みの中に入ると、説明板らしきが立っていた。


そして、沼山古墳を示す道標があった。
道標や説明板を設置した頃から、周囲の潅木が生い茂り、遠目ではそれらが見えなくなっている。
よくあるパターン。
設置するのは有り難いが、その後のメンテがなされていないので、“用無し”になってしまっている。



沼山古墳

 昭和五十七年に公園整備に伴う発掘調査が実施されました。
径約十八m・高さ五・五mの円墳で、墳丘の中央に片袖の横穴式石室が南側に開口しています。
石室の規模は、玄室が長さ四・九五m・幅二・九五m・高さ四・二五mで、これに長さ四・五m・幅一・八m・高さ一・八mの片袖の羨道(せんどう)がとりつきます。
花崗岩の自然石を長手積にし、玄室内は高さ二mまで垂直に積み、それから上は四壁を内傾に積上げています。
そのため天井での面積は狭く二枚の天上石で覆っています。
玄門部には閉塞石(へいそくせき)が残っていました。
玄室内からは、銀製空玉・ガラス製小玉・トンボ玉・金環などの装身具、心葉形杏葉・辻金具、絞具や革帯金具、鞍金具などの馬具、鉄鏃、鎹(かすがい)、釘などの鉄製品、須恵器・土師器などの土器も出土しています。
とくに玄室中央から甕(かめ)・甑(こしき)・竈(かまど)のミニチュア炊飯具のセットが出土しています。
出土した土器から六世紀後半に築かれた古墳と推定されます。
 本古墳は、渡来系の人々が住んだ身狭(むさ、見瀬)に位置し、渡来系の東漢氏の定住していたとされる桧前地域とも隣接しているなど、真弓鑵子塚古墳、乾城古墳、与楽鑵子塚古墳などと同様に玄室平面が正方形に近く、天井が高いドーム形に石積された古墳であることから、これらの人々の墓と思われます。
  橿原市教育委員会



沼山古墳、石室開口部。

つづく。



3月8日(金)06:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳5

白橿南コミュニティーセンターの北側に回る。


舗装道路を歩き、その先、階段を登る。


南方向、高取町方面の山々が見えた。


この時期なので、サザンカだろう。
それにしては、大きく成長したものだ。



沼山古墳はこの先、茂みの中にあった。
付近は管理が行き届いており、綺麗に整備されている。

つづく。



3月8日(金)06:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳4

燈明田児童公園から西正面に見えたピーク。
あれが貝吹山209.9m。
山頂に白っぽい建物のようなものが見えるが、葉っぱが落ちた落葉樹の枝が、そのように見えている。

コースはこの後、画像の歩道橋を渡る。



歩道橋を渡ると住宅地が現れる。


住宅地を南へ歩く。
右手に白橿(しらかし)配水場が見える。



配水場の先、右手には白橿近隣公園があった。

画像は白橿町案内図。
この地図は上が西を示している。
現在地を赤四角でマーキング。
この後に訪問する沼山古墳、益田岩船、貝吹山を赤矢印で地図に書き加えた。



白橿近隣公園の中に白橿南コミュニティーセンターがあって、建物の裏手に回り込む。
撮影した画像はブレていた。

つづく。



3月8日(金)06:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳3

牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)

祭神
高皇産霊命
考元天皇

由緒沿革
日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御代 牟佐(現見瀬町)村主 青の経営であった。
当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり 江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。
享保の頃に菅原道真公を祭神としたが 明治に至り 古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。
境内は考元天皇の即位された宮地と伝えられている。

明日香村 飛鳥坐神社々務所



阿形、口を大きく開けて迫力がある。
下あごがセメントで修理されているようだが、もう少しなんとかならなかったのだろうか。
素人さんの仕業に見えてしまう。



牟佐坐神社を後にする。
神社の北側の道を西に向かって歩くと公園があった。



燈明田児童公園と記されていた。


児童公園の割には、広いスペースがある。

つづく。



3月8日(金)06:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳2

神社の参道下の広場に、地元の人とみられる方々が集まっていたが、「初見瀬恵比須」の準備だった。
挨拶をして、神社にお参りさせて頂く。



参道の石段を登り切ったら、目の前に常夜燈があったが、その“台石”に模様が入ってる。

今、見ると、“竿石”にも竹のような節があって面白い。



あまり意識したことはないが、細部までよく作りこまれていて、手が込んでいると思った。


拝殿。


これは住宅の小窓用カーテンでは。
自宅にも同じようなものがある。
しかし、スカートに見えたりする―笑。

つづく。



3月8日(金)06:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳1

2024年1月7日(日)は、こばこの部に参加した。
題して「貝吹山城へ~益田岩船と牽牛子塚古墳を訪ねて~」

<コース>
近鉄吉野線岡寺駅_牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)_沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)_与楽乾城(ようらくかんじょ)古墳_貝吹山城跡・昼食_白橿(しらかし)町_久米寺_近鉄橿原線橿原神宮前駅

画像は当日歩いたGPSログを表示している。



近鉄吉野線岡寺駅に集合。
“岡寺駅”と云っても、岡寺が近くにあるのではなく約3.5km離れている。

地平駅だが、改札口は地下にある。
画像は地下出入口。



花壇にパンジーが植えられていた。
土がふわふわで、ごく最近に植栽されたのだろう。



Kさんが来ていたが、この日の歩きに参加するのではなかった。
昨年、このグループでハイキング中、アクシデントに見舞われ、そのお礼方々、手土産を持参された。
Kさんはこの近くに在住されている。



Tリーダーから、これから歩くコースの概略を聞く。
まずは、駅の西側に見える、牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)に立ち寄る。
画像は駅前から撮影。

つづく。



3月7日(木)06:13 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社29/29

大鳥大社

御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのみおやのかみ)の二柱であり、和泉国一の宮にあたる延喜式内社(えんぎしきないしゃ)です。
同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいます。
本殿は、神社建築史上、大社造(たいしゃづくり)につぐ古い様式で、大鳥造(おおとりづくり)と呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38年に焼失し、同42年に造営されたものです。
神域は千種盛(ちぐさのもり)といわれ、樹木が密生しています。
白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
平清盛・重盛父子も、平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、
清盛は
『かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神』と詠み、のちに、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。
境内には、与謝野晶子歌碑もあります。



拝殿前と鳥居。


神馬像。


大鳥大社を後にして、ゴールのJR阪和線鳳駅へ向かう。

阪和線の踏切を横断せず、その手前で右折。



すると左側に鳳駅が現れた。
阪和線に乗って天王寺駅へ、環状線鶴橋駅で近鉄線に乗り換え帰宅した。

おしまい。



3月7日(木)06:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

反正天皇陵_大仙公園_石津神社_大鳥大社28

大鳥大社、北西の角地に到着。
ここは右方向へ。



大鳥大社前の交差点で車道を横断。
境内に入る。



鳥居を潜る。
正月の出店の準備で、業者の方々は忙しくされていた。
この時間(15:20)、参拝者の姿はほとんど見られず。



大鳥大社 由緒

祭神 日本武尊
   大鳥連祖神
例祭 八月十三日
御増祀記念大祭 三月十五日

当社はその起源古く古来大鳥大明神と称せられ 延喜式名神大社であり 和泉国一の宮である。
日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇の皇子にして 勅を奉じ 熊襲並に東国を平定、帰途 伊吹山の賊を平らげたとき 病を得て伊勢国能褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と化し 御陵を出て大和国琴引原、次に河内国古市にとび 最後に此の地に留まり坐したので 社を創建、之が当社の起源と伝える。
又、大鳥の連祖神は大中臣と元を一にし 祖先は天の岩戸開きに功を立てた天児屋根命(アメノコヤネ)である。
聖武天皇の御世には僧行基が勅願により 神宮寺として この地に勧学院神鳳寺を建立したが明治の神仏分離により廃寺となり 当社は明治四年三月 官幣大社に列格 社殿は大鳥造と称して神社建築史上 貴重な様式を今に伝える。



歩いて来た参道を振り返って撮影。

つづく。



3月7日(木)06:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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