(続)難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」の右側にある大村益次郎のレリーフ。 大村益次郎 - Wikipediaによると、 ・大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。 維新の十傑の一人に数えられる。 ・長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。 太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。 靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。
この場所に記念碑があるのは、この地が“最期の地”だった。
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| 難波宮跡公園(フェンスの向こう側)に咲くハナニラ。 野生化している。
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| 難波宮跡、大極殿の礎石。(復元) 難波宮跡公園によると、 ・飛鳥~奈良時代にかけて、大阪が日本の都であったことを示す前後期の宮殿の跡。 ・大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。 ・昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。 ・現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。 ・史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。 ・公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。
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| 大阪城、大手口枡形の巨石 現地の説明板によると、 枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。 築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。 大手門をくぐって正面に位置する大手見付石(おおてみつけいし)は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石(おおてにばんいし)は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石(おおてさんばんいし)は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)と推定されている。 現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。 この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠弘(かとうただひろ)が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。
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| ソメイヨシノの開花は先の開花予報と較べると、4、5日遅れていたようだ。 大阪城、大手門付近にて。
つづく。
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4月15日(月)18:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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