山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


山陰道(丹波口駅_亀岡駅)2

丹波口駅の周辺は京都市中央卸売市場となっている。「モートラ車」と呼ばれる荷物の運搬用に使われる車が面白い。立ったままクルマを運転する。


大銀杏の案内板。
島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治三十六年(1903)に神社は再興されたが、境内はこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。昭和五年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今では樹高(二十米)、幹周り(三.五m)ともに樹齢三百年相応の島原一の巨木となっている。平成十三年十一月吉日 島原伝統保存会



こちらがその大銀杏。


細い旧道。


歌舞練場跡(かぶれんじょうあと)記念碑。
島原歌舞練場は、明治六年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同十四年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和二年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同二十二年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成八年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場百二十余年の歴史を閉じることとなった。また、天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約二百年の樹齢を誇るがごとく、樹高は十五米、幹周も二米となり、今なお神木としての威厳を留めている。ここに、記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するものである。平成十三年十一月吉日 島原伝統保存会



12月3日(木)18:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
添付画像
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)