山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


難波の道(太閤下水から中央公会堂)

2019年3月28日(木)は、ササユリの会に参加した。
タイトルは「難波(なにわ)の道~太閤下水から中央公会堂まで~」。

<概要>
スタートは地下鉄谷町線谷町六丁目駅。ゴールは地下鉄御堂筋線淀屋橋駅。
谷町六丁目から七丁目辺りは、太平洋戦争の空襲で焼け残ったので、古い伝統的な家屋が多く残っている。

熊野街道に出合いこれを北へ歩く。
この近辺は今年1月26日、土曜会でなにわの熊野街道(天満橋_阿部野橋)で歩いていた。
なので、重複する部分は割愛する。
直木三十五文学碑、榎木大明神を観て太閤下水見学施設へ。
この施設、見学するには事前に申し込みが必要。

熊野街道の説明板、南組惣會所跡の石碑、兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑などを見て難波宮跡へ向かう。
難波宮朝堂院南門跡から難波宮跡公園、難波宮跡を観て法円坂の交差点を北へ横断。

大手門から大阪城へ入る。
サクラの開花は先の開花予報と較べると、2、3日遅れていたようだ。

平日ながらインバウンドで賑わう城内を練り歩く。
桜門枡形の巨石、1931年建立の旧陸軍第四師団司令部庁舎(現在:商業施設 ミライザ大阪城)などを観る。
日本庭園の南、南西隅櫓跡で昼食。

食後は刻印石広場、「豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地」の石碑、大阪城の内堀を船で周遊する御座船(ござぶね)、珍しい明の時代の狛犬などを観て京橋口へ。
寝屋川に掛かる大坂橋、川崎地蔵尊、大川に架かる川崎橋を渡って造幣局の南門前へ。

「将棊島粗朶水制跡」を観て、天神橋北詰交差点から天神橋を渡って中之島へ入る。
薬剤散布中のパラ園、「ばらぞの橋」を渡って大阪市中央公会堂前へ。

土佐堀川に架かる栴檀木橋を渡って北浜2交差点から、「史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾」へ。
この施設は参観料(260円)が必要で、機会があればゆっくり観てみたい。
ここで解散となり、私は地下鉄御堂筋線淀屋橋駅へ向かった。

<コース>
地下鉄谷町線谷町六丁目駅10:10_長堀通の南側の道を西へ_春田ビル(閉ざされた階段)前_CAFE & BAR Hampi前_うたげ(肉料理)前_長堀通を西へ_熊野街道を北へ_直木三十五文学碑_榎木大明神_道標・説明板(熊野街道)_石柱(→太閤下水見学施設)_説明板(太閤下水(背割下水))_南大江小学校前_案内板(歴史の道 熊野かいどう)_石碑(南組惣會所跡)_谷町五丁目交差点を東へ_兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑_上町筋を東へ横断_難波宮朝堂院南門跡_難波宮跡公園_難波宮跡 公衆トイレ_法円坂の交差点を北へ横断_説明板(重要文化財 大手門)_大阪城 多聞櫓_説明板(大手口枡形の巨石)_説明板(重要文化財 千貫櫓)_説明板(南仕切門跡・太鼓櫓跡)_説明板(桜門枡形の巨石)_ミライザ大阪城(商業施設 旧陸軍第四師団司令部庁舎1931年建立)前_日本庭園_11:41大阪城 南西隅櫓跡・昼食12:14_刻印石広場・説明板(大阪城内ゾーン)・竜造寺町12ゾーン_石碑(豊臣秀頼 淀殿ら自刀の地)_大阪城御座船乗り場_狛犬(中国・明の時代の文化遺産)・記念碑(中日友好萬古長青)_大阪城 京橋口_旧大阪砲兵工廠化学分析場前_寝屋川に掛かる大坂橋を渡る_京阪本線の地下道を潜る_川崎地蔵尊_大川に架かる川崎橋を渡る_大川に架かる天満橋の高架下を潜る_石碑・説明板(将棊島粗朶水制跡)_天神橋北詰交差点を左折 天神橋を渡って中之島へ_案内図(中之島案内図)_パラ園_ばらぞの橋を渡る_大阪市中央公会堂_土佐堀川に架かる栴檀木橋を渡る_福仙楼前_史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾(参観料 260円)_緒方洪庵像_大阪淀屋橋郵便局前_14:15地下鉄御堂筋線淀屋橋駅1出入口

<メモ>
・参加者: 11名。
・コース歩行 (谷町六丁目駅~淀屋橋駅までの所要時間と距離)
 歩行距離: 約10.0km。
 所要時間: 4時間0分。
・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離)
 推測距離: 約12.5km。(0.67m×18,615歩=12,472m)
 歩行時間: 3時間6分。
 歩数: 1万9千歩。

画像は地下鉄谷町線谷町六丁目駅から、地下鉄御堂筋線淀屋橋駅までのGPSログを表示。



左の建物の階段、通行が出来ない。所謂“デッドスペース”。
階段を塞いで平坦にした方が、スペースを有効に利用出来る。
大阪市中央区谷町6丁目にて。



地下の太閤下水を覗き見するウインドー。
湿気で窓が結露しており、下の様子がよく見えない。
“下水”にしては、比較的綺麗な水が勢い良く流れていた。

太閤下水(背割下水)  現地の説明板によると、
江戸時代に造られた石組み下水道。
「太閤下水」の呼称から、豊臣秀吉が行った大坂の町づくりと関連付けられています。
17世紀中頃の大坂を描いた「三郷町絵図」にこれらの水路が描かれており、江戸時代初期からあった下水道といわれています。
明治27年(1894年)から行われた「中央部下水道改良事業」によって、石組み溝の底にコンクリートを打ち、蓋をかぶせる工事を行い現在の姿となりました。
江戸時代に造られた下水道が現役で機能している例は他都市にはなく、大坂の町づくりの歴史を示す貴重な資料として、一部が平成17(2005)年度に大阪市文化財(史跡)に指定されました。[大阪市]



「歴史の道 熊野かいどう」
平安時代中期から鎌倉時代にかけて熊野信仰が盛んになると、王朝貴族から武士や庶民にいたるまで、多くの人々がこぞって熊野参詣を行うようになり、その様子は、「蟻の熊野詣」と言われました。
京都の下鳥羽から船で淀川を下り、窪津(別名を渡辺津といい、現在の中央区天満橋京町)に上陸します。
熊野街道は、そこにあった第一の王子社(おうじのやしろ)の窪津王子を起点として、この付近を通って四天王寺・住吉・泉州・紀州・中辺路を経由して、熊野三山(本宮・新宮速玉・那智)に至る信仰の道です。
なお、近くの神崎町に、九十九王子社の一つである坂口王子伝承地の朝日神明宮旧跡があります。
 平成六年五月 大阪市
 建立 南大江社会福祉協議会



大阪市中央区のイベント・観光・旅行に役立つ情報サイト、“大阪中心”によると、
南組惣會所跡(みなみぐみそうかいしょあと)

町人が中心となって町政を司る
江戸時代の大坂は、大川以南から本町通までの北組、本町通から道頓堀あたりまでの南組、大川以北の天満組に区分され、その3組を総称して大坂三郷と呼ばれていた。
各組には自治行政を行った惣会所が置かれ、運営の中心となる惣年寄がおり、その下で惣代が実務を担っていた。
惣年寄は町奉行のもとで、年貢の取り立て、御触(おふれ)の通達、町年寄の任命、火消しの人手の指揮など、現在の市役所・司法・消防・警察などの業務を担当した。
この制度は大阪・岡山・高知・鹿児島などにみられ、江戸時代のはじめ頃の元和2年(一六一九)から明治のはじめまで続いた。
北組惣会所跡の石碑は大正8年(一九一九)、南組惣会所跡は昭和37年(一九六二)に建立。

画像左の石柱が南組惣會所跡碑。
右は南大江小学校跡碑。

つづく。



4月14日(日)18:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
添付画像
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)