(完)難波の道(太閤下水から中央公会堂) |
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| 明の時代の珍しい狛犬。
こま犬 現地の説明板より、 この一対の「こま犬」は中国・明【みん】の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンである。 日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。 戦後も長らく山里口出枡形【やまざとぐちでますがた】の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。 以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼を深める象徴となっている。 脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆になる。
画像中央の石碑“中日友好萬古長青”は、当時の宋之光中華人民共和国駐日本国特命全権大使の筆による。
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| 川崎地蔵尊。 大川と寝屋川の合流地点、その大川に架かる川崎橋の南詰にある。
ネット検索によると、 川崎というのは旧地名だそう。 川崎橋は昭和53年に完成で新しい。 元は“川崎渡”があった場所とのこと。
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| 「将棊島 粗朶水制跡」の石碑と説明板。
将棊島は、淀川の水が寝屋川・鯰江川(なまずえがわ)に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために、三つの河川の合流点の網島から天満橋を越えて二三六間(約四三〇m)余り下流まで築かれた隔流堤で、幅七間(約一三3m)あった。 淀川治水のため、明治六年(一八七三年)に来日したオランダ人技師デ・レーケ、エッシェル、ティッセンの3人は、その翌年、将棊島地先にオランダ式の粗朶沈床による水制工を実施した。 これは木の枝を束ね、組み合わせたものに石を詰め、河岸から河の中央に向かって設置された突起物で、水の勢いを弱め、護岸に効果があった。 この工法はケレップ水制とも呼ばれ、現在でも城北公園(旭区)北側の淀川左岸にその名残を留める。 デ・レーケは来日してから二九年間、大阪に留まり、淀川の治水と大阪湾の建設に尽力した。 大阪市教育委員会
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| ばらぞの橋。 中之島、パラ園にて。
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| 緒方洪庵像。
「史跡 重要文化財 緒方洪庵旧宅及び塾」の庭にて。
緒方洪庵 - Wikipediaによると、 ・緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は、江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。 ・大坂に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。 ・天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
おしまい。
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4月17日(水)18:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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