山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


ウォーキング・散策

大木の里から犬鳴山の道18

この石仏はお地蔵さんではないように見えた。


クサギの花。満開が近い。


樫井川の流れ。水量は比較的豊か。


やがて阪和道の高架下を潜る。下の道路は府道62号。


新前川橋の交差点を渡って、府道62号に沿って歩く。クルマの往来が多い。


7月25日(土)20:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道17

春日神社を後にする。祠が見えたので立ち寄る。


お地蔵さん。口元が縦に長く表現されているようだ。


暫く歩くと「土丸城の由来」の説明板が設置されていた。ここ春日神社の前から登山道が続いている。
※「いずみさのなんでも百科」によると、土丸城は土丸山(城ノ山)の頂上付近にあり、槌丸城とも書かれる中世の城址。築城年代は不明ですが、南北朝のころに築かれたものと思われます。紀州と和泉を結ぶ往環道に位置し、戦略上重要な土地であったこの城では、楠木正勝や細川頼元、山名義理、橋本正高など、有名な武将が活躍しています。元和年間の土丸城絵図には、本丸、二の丸、三の丸や守備兵の宿泊小屋などが描かれていますが、近世的城郭のイメージで描かれたものといわれています。今も山上には、龍王神社や顕彰碑、古井戸、武者かくしなどが残されています。また、谷をへだてて相対する雨山には雨山城跡(熊取町)があり、土丸城を雨山城の出城と考え、二つ合わせて雨山城と呼ぶ場合があります。



クルマに注意しながら車道を歩く。


ここにも祠があったので立ち寄る。


7月24日(金)19:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道16

春日神社、拝殿の奥に祀られていた摂社。後方にも小さな社殿があり神々が祀られていた。
※この摂社は、「またり社」とみられる。



拝殿の奥の様子。拝殿の奥は鍵が掛かっていなかったので入ることが出来た。


お供えを鳥などの獣害から守る為に金網が掛けてあるのだろう。


春日神社の前の広場に設置されていた「国史跡・日根荘(ひねのしょう)遺跡」の案内板。
※国史跡 日根荘遺跡 泉佐野市歴史文化プロモーション事業のサイト
http://www.hinenosho.com/21.html



「国史跡・日根荘遺跡」の案内板を見る皆さん。後方は春日神社と鎮守の森。左は地元の子供さんたち。


7月24日(金)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道15

老人ホーム泉ヶ丘園の駐車場前に置かれていた「昇り竜」。ここから引き返す。


その後も、道迷いがあったが、樫井川に架かる橋を渡って、土丸の集落に入って来た。


前方に巨樹が見える。これから訪れる「春日神社」の鎮守の森。


巨樹はクスノキで何本かあった。ここで小休止となる。


境内に置かれていた道標。「右 またり神 道」。またり神とは?(画像はライトアップしている)
※「いずみさのなんでも百科」によると、疫病退散の神、麻多利(またり)神を祀った民間信仰。地元では麻多利はマタリンさんと呼ばれています。明治時代に流行したコレラやチフスなどの外来の伝染病を退散させようと、大木の人々が仏教の強力な神、麻多利、摩軻迦羅(まかかーら)(大黒天)を迎えて祀ったものです。上大木では今も7月24日に大祭を行います。マタリンさん信仰は土丸や山向こうの貝塚市秬谷、大川でもありますが、開国後に近代文明とともに入ってきたおそろしい伝染病に対してなすすべもなかった山里の人々が、マタリンさんに頼った心情がしのばれます。



7月24日(金)19:50 | トラックバック(0) | コメント(3) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道14

車道を歩く。クルマはほとんど通らない。大井関公園を過ぎたあたりから、泉佐野市日根野から、泉佐野市土丸(つちまる)に変わっていた。前方に阪和道の高架が見える。


今年クリは豊作と聞く。


東方向に見えた美しい二双の山。左のピークが雨山312m、右のこんもりとしたピークが土丸城跡287mだろう。2014年3月に、この日と同じ「おおばこ」で歩いた記憶が甦ってきた。


「たまねぎ小屋」。稲作の裏作として栽培されているので、残念ながら、この時季、たまねぎは見られない。


車道から離れ、樫井川の方向へ歩くが、道が違っていたようで引き返すことに。


7月24日(金)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道13

再び細い道となってこれを下る。


「大阪みどりの百選」のひとつになっている「ろじ渓」。ろじ渓の名称は日本書紀の祭神名からつけられたといわれている。


太鼓橋が現れる。


太鼓橋から上流方向の眺め。谷底の清流と迫力ある奇岩が楽しめ一見の価値あり。


橋を渡り坂を登ると視界が開けた。付近は田園地帯となっている。尚、この先樫井川の右岸に井川の取水口があるらしい。正面に見える丘陵は古墳に見えなくもない。


7月23日(木)20:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道12

日根神社、神門前の石段で集合写真の撮影となった。日根神社、慈眼院を後にする。


もと来た参道を戻らずに、日根神社拝殿の右側から、細く続く小道を大井関公園の方向に歩く。


拝殿の右側から続く細い小道。右下に樫井川(かしいかわ)の渓谷が見えた。


摂社の傍らに置かれていた「天保十四癸卯年?春吉日」の銘のある石標。


広場のような場所に出る。サクラが植樹されており、案内板はないが大井関公園なのだろう。


7月23日(木)20:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道11

井川越しに慈眼院(じげんいん)の国宝・多宝塔を眺める。三間二層、全高10メートル余。我が国最小の塔と知られ、日本三名塔と称されている。


撮影場所を変え改めて多宝塔を眺める。
※「いずみさのなんでも百科」によると、石山寺、高野山金剛三昧院と並ぶ日本三名塔の一つ。1271(文永8)年に再建されたものといわれ、現存の多宝塔の中でも小形ながら優美な作として有名。国宝建築物に指定されている。 高さ10.5メートル、下層の方形と上層の円形の対比がすぐれ、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で相輪(そうりん)がたっている。



大阪府天然記念物に指定されている「弘法慈眼院の姥桜」(こうぼうじげんいんのうばざくら)。(昭和36年3月指定)
※「いずみさのなんでも百科」によると、慈眼院の本堂横、日根神社の参道にある早咲きの桜の老樹。弘法大師が立てた杖が成長して桜になったという伝説がある。江戸時代には、泉南の名所として多くの花見客で賑わったといわれており、『和泉名所図会』にも紹介されている。主木はすでに枯れ、その根元から「ひこばえ」が三本生えて成長しており、美しい花を咲かせている。府の天然記念物に指定されている。



慈眼院の入口方向へ回ってみる。


慈眼院は拝観料が必要で、時間もあまりなく、この日は拝観せず。
※「いずみさのなんでも百科」によると、日根野東上にあり、日根神社の幾つかあった神宮寺の一つ。673(白鳳2)年の開創と伝えられる古刹。真言宗仁和寺の末寺。後聖武天皇の時、勅願寺となり、817(弘仁8)年弘法大師が来住して多宝塔・金堂などの諸堂を建立したといわれています。 古くは中之坊と呼ばれていましたが、1665年(寛文5年)に慈眼院の院号を得るなどして有力な神宮寺になっていきました。 天正年間、織田信長の根来寺攻めの時に兵火にみまわれたと伝えられ、わずかに多宝塔と金堂のみが残されました。その後豊臣秀頼により修復され、江戸時代には岸和田藩主岡部侯の祈願所ともなりました。国宝の多宝塔や重要文化財の金堂をはじめとする多くの文化財が残され、弘法慈眼院の姥桜などの伝説も伝えられています。



7月23日(木)20:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道10

奉納された泉州の地酒「荘の郷」。酒蔵は泉佐野市の北庄司酒造。


日根神社本殿。
※先の「いずみさのなんでも百科」によると、現在の本殿は天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものと伝えている。



狛犬阿形。


そして吽形。どちらも口が裂けたように大きいのが特徴。


境内に井川(ゆかわ)が流れる。
※先の「いずみさのなんでも百科」によると、昨日(7月18日)この井川(ゆかわ)に祭壇を設けて祓いの神事を行った。この日に井川の水に手をつけると、できものが治るといわれている。



7月23日(木)20:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道9

やがて日根神社の鳥居を潜る。


長い参道を歩くと二つ目の鳥居が現れる。


日根神社の説明板。
※「いずみさのなんでも百科」によると、日根野東上にあり、10世紀前半の延喜式神名帳に記載される古社で、平安時代末期から江戸時代までは大井関大明神、日根大明神と呼ばれていました。地元では「おおせきさん」と呼ばれています。社伝によれば、創建は673(白鳳2)年。720(養老4)年には和泉五社の一社となっています。祭神は鵜芽草葺不尊(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫命(たまりひめのみこと)の二柱と伝えられていますが、一説には新羅の億斯富使主(おみふのおみ)であるともいわれています。大井関大明神とも呼ばれたように、田畑を潤す樫井川や水路を加護する神として親しまれてきました。創建以来幾度かの火災などにみまわれ、天正年間(1580年代)の織田信長の雑賀攻の際にも焼かれています。1602(慶長7)年に豊臣秀頼により現在の社殿が建立され、その後岸和田藩主岡部侯の庇護(ひご)を受けることとなりました。本殿は大規模な春日造、桧皮葺、向拝に華麗な唐破風をつけ、いかにも桃山時代らしい様式を伝えており、現在大阪府指定文化財となっています。また、5月5日に行われるこの神社の例祭「まくら祭り」は優美な祭として有名です。



境内では昨日(7月18日)行われたらしい「ゆ祭り」の神事と「五社音頭踊り」が奉納され、その後片付けの最中。
※「いずみさのなんでも百科」によると、日根神社の夏祭り。「ゆ」とはかん漑用水のことです。樫井川水系の水が枯れることなく豊作になるように、7月第3土曜日に日根神社の境内で神事と五社音頭奉納などが行なわれます。かつては旧暦の6月16日でした。神事は日根神社境内のすぐ脇を流れる井川(ゆかわ)に祭壇を設けて祓いの神事をします。この日井川の水に手をつけると、できものが治るといわれています。五社音頭は日根野、上之郷、長滝の3地区から奉納されます。かつては8月1日の泉南市の祗園さんと並ぶ大勢の参拝者を集めた盛大な夏祭りでした。樫井川流域の農地はほとんど樫井川とそこから取水した用水の恩恵を得て豊かな農業を営んできました。この祭りは、樫井川の水源の安全と夏の災厄除けを祈願する祭りと考えられています。



日根神社拝殿。


7月22日(水)21:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道8

天満宮の狛犬吽形。


こちらは阿形。頭髪が目の上まで垂れている。団子鼻もユーモラス。愛嬌があって私的には興味を引かれる狛犬。


「安政 八月」の文字が見える。他の文字はよくわからない。


「久之木 北荘司 善兵衛」だろう。
※歴史民俗用語辞典によると、「荘司とは荘園の管理者。荘園の管理、労働力の統制のために荘園領主より任じられた者。」 



総福寺天満宮を後にする。たまねぎを吊るして保存しておくための「たまねぎ小屋」と呼ばれるもの。泉州ならではの光景。


7月22日(水)21:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道7

「総(惣)福寺 鎮守 天満宮 本殿」。国の重要文化財。天正四年(1576)頃に建立。


こちらは天満宮ではお馴染み「願かけなで牛」。


ここで小休止となる。お堂の中から読経が聞こえていた。


順序良く並べられていた石造物。


石灯籠。「久之木村」、左は「惣氏神」右は「?皇大神宮」と彫られていた。石灯籠の後に吊るしてあるのは地元の名産「泉州たまねぎ」だろう。


7月22日(水)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道6

三叉路の分岐に道標かと思った。右半分に何か彫ってあったのかもしれないが不明。


総福寺天満宮へ。上の文字がかすれているが、「重要文化財」だろう。


旧道を歩く。


道標を見て左折。


「天満宮」の扁額が掲げられた鳥居。


7月22日(水)21:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道5

法然上人の銅像。


扁額。


日本原産のヒツジグサだろう。


西上寺を後にする。


集落の中を抜けると、周りの景色は一変し、長閑な農村風景が現れた。


7月21日(火)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道4

二基の石燈籠の一つ。「太神宮」。もう一基は「惣氏神」。いずれも「安政二乙卯五月吉日」の銘。


石燈籠の横に地蔵堂があったので立ち寄る。


もしかすると火災に遭われたのかもしれない。


「浄土宗 無量山摂取院 西上寺」。せっかくだから境内にお邪魔する。


説明によると、法然上人の真身舎利が山門の棟上にお祠りしてある。


7月21日(火)19:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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