野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社28 |
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| まったく気が抜けない下山道。
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| そしてまた登り返す。
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| 手前の高架道路は第二京阪道。
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| 手摺の代わりに、左右にチェーンロープが用いられている。
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| 何を表示しているのかと思って振り向くと「足元に注意!」
つづく。
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2月6日(火)17:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社27 |
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| 一息ついた後、再び下り始める。
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| 権現川が流れる谷間を挟んで、北東方向の山並み。
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| 階段が苦手な人は右の脇道が重宝する。
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| 降りてきたところを振り返って撮影。 なかなか傾斜がきつい。 先程の画像では、この傾斜はわかりにくい。
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| 僅かな距離だが登り返す。
つづく。
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2月6日(火)17:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社26 |
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| 二の丸史蹟碑郭に到着。
後続の人達との距離を縮める為、ここで少し休憩となる。 眺望も良く、ベンチもあって絶好の休憩ポイント。
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| 「飯盛山史蹟」
標高三一八米 地質花崗岩 建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ其規模頗る宏大三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる現存せる城址は実に當年のものなり 大正十三年一月廿六日 大阪府立四條畷中學校校友會
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| 眺望は相変わらず、遠望は利かないものの、降雨よりマシだろう。
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| マメガキと呼ばれる柿の原種かも。
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| 後続の人達を待つ。
つづく。
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2月5日(月)17:51 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社25 |
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| 下山道の途中に石碑のようなものが建つコブがあった。 このコブは二ノ丸御体塚郭。
石碑に立ち寄ってみる。
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| 石碑の傍で登山者が休憩していた。 石碑には「登山参百回記念」と刻まれていた。 この石碑を建てたのは四條畷中学校長らしい。(大正時代)
ネット検索すると、
「二ノ丸御体塚郭は三好長慶の死後、その死を2年間にわたり公表しなかった。 その仮埋墓地だといわれている。」
“御体”とは、“三好長慶”を指すのだろう。 ということは、仮埋墓地に石碑を立てたらしい。 そして、彼は仮埋墓地で休憩する人ということになる。
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| この石垣は二ノ丸御体塚郭と二ノ丸史蹟碑郭の間にある石垣。
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| フイックスロープは必要ないが、それでも気が抜けない。
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| 多少、登り返しがある。
つづく。
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2月5日(月)17:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社24 |
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| 飯盛山からの下山道は登り道以上に急坂。 ここはフイックスロープが設けられている。 また、葉っぱが積もって滑りやすい。
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| 旧登山道は法面崩壊につき、新道を歩くことを誘導している。
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| 分岐。 下山道は左、「四條畷神社・御机神社」方面へ。
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| 傾斜が少し緩やかに。
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| 画像中央右の石垣、多少は整備されただろうが、大きく復元したようには思えない。
下記、四條畷市のサイトによると、 国史跡 飯盛城跡について
「この山城は石垣が多くの曲輪で用いられていることが特徴です。 これらの石垣は石材をほぼ垂直に積み上げており、なかには数段にわたって築いているものもあります。 石垣を多用した城としては織田信長が築いた安土城に先駆ける貴重なものです。 飯盛城はもっとも初期に石垣を使い始めた城で、後の時代の城のように石垣の上に直接建物が乗るのではなく、石垣は城を作るために盛った土の押さえであった可能性があり、城の威容(いよう)を示すためのものだったのではないかと考えられています。」
つづく。
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2月5日(月)17:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社23 |
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| 飯盛山周辺登山路略図
“略図”だけあって、実際に歩く人の参考にはならないようだ。
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| 展望台からの眺望。 霞んでおりイマイチ。 「あべのハルカス」すら見えない。
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| 直下のお二人。 笑顔が素敵! ・・残念、画像がぼけている―笑。
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| ここでも紅葉が観られた。
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| 飯盛城と天下人・三好長慶
飯盛城は標高314mの飯盛山に築かれた戦国時代の山城です。城の範囲は東西約400m、南北約700mを測り、大阪府内最大級の規模を誇ります。 飯盛城は、享禄年間(1528~32)、河内守護代木沢長政によって築城され、天文20年(1551) に安見宗房が入城した後、永禄3年(1560)、三好長慶が芥川山城(高槻市)から移り、居城としました。 長慶は、近畿と四国の大部分を治め、将軍足利義輝を京都から追放して政治の実権を握った人物で、「最初の天下人」として知られています。 長慶の入城後、 飯盛城では大規模な連歌会(飯盛千句)が催されたことや、イエズス会の修道士ロレンソ了斎が長慶配下の武将を洗礼したことなどが記録からわかっています。 飯盛山頂の南側の尾根にはVⅢ郭(千畳敷郭)を中心とした曲輪が築かれています。 近年行われた発掘調査で建物の礎石や壁土、食器類、茶道具などが見つかっていることから、居住のための空間であったと考えられます。 一方、山頂北側の尾根にはⅠ郭 (高櫓郭)を中心に大小様々な曲輪が階段状に配され、要所に堀切や土橋、切岸などが設けられていることから 防御のための空間であったと考えられます。 Ⅰ郭とV郭(御体塚郭)を取り巻くように築かれた石垣は、飯盛城が安土城に先行する本格的な石垣づくりの城であったことを物語っています。 これらの遺構は、三好長慶によって整備されたものと考えられ、「天下人の城」にふさわしい威容を誇っています。 令和元年6月 大東市教育委員会
つづく。
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2月5日(月)17:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社22 |
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| 楠木正行(くすのきまさつら)は楠木正成の嫡男。
下記のサイトによると、 楠木正行
「正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。」
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| 国旗掲揚台。
大東市役所のサイトによると、
「昭和14年に、地域の防空・防火を担う四條畷警防団が設立されたことを記念し、建設されたもの。」
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| 「飯盛城址」の石碑。
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| 飯盛城
飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。 飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。 そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。 その後、交野の土豪であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。 また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン) 長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。 しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。 平成22年2月 大東市教育委員会
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| 展望台を兼ねた休憩所。
つづく。
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2月5日(月)17:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社21 |
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| 歩いて来た方向を振り返って撮影。(東方向) 一旦、道なりに下り再び登り返す。
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| ここから少し登り返し。
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| 堀切・土橋
敵の侵入を防ぐために設けられた尾根を分断する掘を「堀切」、その中央部分を橋状に残したものを「土橋」といいます。 土橋は一人ずつしか通行出来ず、敵兵の勢いを削ぐことができます。 また、この土橋を切り崩せば敵の侵入を防ぐこともできます。 大東・三好長慶会 大東市教育委員会
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| どちらからも登れるが、右はロープがある。
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| 登り詰めると楠木正行の銅像が建つ後に出る。
つづく。
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2月1日(木)06:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社20 |
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| 飯盛山山頂に建つ「FM802飯盛山送信所」の概要。
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| この電波塔は、平地から眺めると、飯盛山の目印になっている。
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| 電波塔の前を通って西へ。
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| 二本のモミジの木による色の組み合わせ。 美しい織物のようだ。
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| 「飯盛山 頂上」と記されていた。
つづく。
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2月1日(木)06:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社19 |
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| 各自が持参した酒の肴一品。 お酒はリーダーと、一部の人が好意で持参してくれた。
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| テーブルは二つに分かれたものの、皆さん、会話も弾んで、結構、楽しく飲み食いされていた様子。
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| こちらは女性グループのテーブル。 どうしても、男女に分かれてしまう。
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| 忘年会の席上で恒例となっている、各個人が“今年(2023年)を一字の漢字”で表し、それについて簡単にスピーチする。 その話題で盛り上がっている様子。
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| 忘年会の所要時間は約2時間。(11:30→13:20) この後、飯盛山山頂へ向かう。 山頂までの標高差はほとんどない。
つづく。
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2月1日(木)06:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社18 |
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| ブランコをイメージしたもの。
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| 千畳敷郭
飯盛城内では、最大の面積を持つ郭で、発掘調査で、柱の礎石や、土師器皿、調理用具などが出土していることから、居住空間と考えられます。 この場は、文献にも三好長慶が茶会や連歌の会を催したという記述が残されていることから、千畳敷で催されたのではないでしょうか。 大東・三好長慶会 大東市教育委員会
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| 飯盛山の山頂近くに到着。 画像は山頂に建つ「FM802」の電波塔。
画像の左にベンチらしきが写っている。(赤丸印)
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| 登山コースから、やや離れたところに、老朽化したベンチが置かれていた。 登山者と出会うこともなく、忘年会の場所として適所だと思われた。
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| 老朽化したように見えたが、意外にそうでもなかった。
つづく。
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2月1日(木)06:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社17 |
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| この付近にはモミジが植栽されているようだ。 丁度、見頃。
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| こちらは真っ赤に紅葉。 素晴らしい。
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| この先、分岐。 コースは尾根に沿って直進。 左下は「←北條小学校」と記した手製の道標があった。 このルートはまだ歩いたことがない。(別名:地獄谷古道)
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| 虎口(こぐち)と石垣
ここは、飯盛城の出入口で虎口と云います。 虎口の両側には、石垣が残ります。 飯盛城は中世の山城としては珍しく、石垣が多用された本格的な石垣づくりの山城です。 石垣は東面と西面に多く、登城道や、深野池から山城を見せる工夫であったと考えられます。 三好長慶の時代に整備されたものが多いようで、往時を偲ばせます。 大東・三好長慶会 大東市教育委員会
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| 広場のような平坦なところに出る。 ベンチが置かれた休憩コーナーがあって、ドングリや木の実を使って遊び心溢れる演出がなされている。
つづく。
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2月1日(木)06:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社16 |
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| やがて、絵日傘峠に到着。 右分岐で、二回目となる野外活動センター方面を見送り、引き続き北へ。 この道標では「四條畷方面」。
尚、“絵日傘峠”の名前は、野崎小唄の歌詞から名付けられたらしい。 野崎参りは♪・・・粋な日傘にゃ♪ 蝶々もとまる・・♪
【参考】野崎小唄 東海林太郎 唄
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| 東方向を眺めると野外活動センターの建物が少し見えた。
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| 切り通しとなった尾根道を進む。
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| 分岐となる「杉むら峠」に到着。 コースは直進。
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| 左下は、野崎観音(竹林コース)。 七曲り登山道の手前で、竹林コースの左分岐があった。 尚、道標に「この道は悪路!初めての人 七曲りコースへ」と記されている。 (赤四角)
つづく。
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1月31日(水)08:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社15 |
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| 登山道は階段を登るようになる。 この階段は新しい。 少なくとも以前は手摺はなかったように思う。
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| この後、階段が一段落する。
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| 飯盛ハイキング道の案内図。 この地図は上が南を表示している。
現在地を赤▲で表示した。(画像左) 現在地は、野外活動センターへの右分岐となっている。 コースは右分岐を見送り直進。(北)
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| “キャンピィだいとう”とは大東市立野外活動センターの愛称らしい。 分岐なので、ここで暫く後続の人達を待つ。
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| 休憩後、引き続き階段を登る。
つづく。
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1月31日(水)08:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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