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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社22

楠木正行(くすのきまさつら)は楠木正成の嫡男。

下記のサイトによると、
楠木正行

「正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。」



国旗掲揚台。

大東市役所のサイトによると、

「昭和14年に、地域の防空・防火を担う四條畷警防団が設立されたことを記念し、建設されたもの。」



「飯盛城址」の石碑。


飯盛城

飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。
飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。
そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣、木沢長政が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。
その後、交野の土豪であった安見直政が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。
また、長慶はキリスト教にも寛容で城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています。(河内キリシタン)
長慶が城主であった全盛期には、南北約1200m、東西約500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。
しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。
  平成22年2月 大東市教育委員会



展望台を兼ねた休憩所。

つづく。



2月5日(月)17:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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