山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社23

飯盛山周辺登山路略図

“略図”だけあって、実際に歩く人の参考にはならないようだ。



展望台からの眺望。
霞んでおりイマイチ。
「あべのハルカス」すら見えない。



直下のお二人。
笑顔が素敵!
・・残念、画像がぼけている―笑。



ここでも紅葉が観られた。


飯盛城と天下人・三好長慶

飯盛城は標高314mの飯盛山に築かれた戦国時代の山城です。城の範囲は東西約400m、南北約700mを測り、大阪府内最大級の規模を誇ります。
飯盛城は、享禄年間(1528~32)、河内守護代木沢長政によって築城され、天文20年(1551) に安見宗房が入城した後、永禄3年(1560)、三好長慶が芥川山城(高槻市)から移り、居城としました。
長慶は、近畿と四国の大部分を治め、将軍足利義輝を京都から追放して政治の実権を握った人物で、「最初の天下人」として知られています。
長慶の入城後、 飯盛城では大規模な連歌会(飯盛千句)が催されたことや、イエズス会の修道士ロレンソ了斎が長慶配下の武将を洗礼したことなどが記録からわかっています。
飯盛山頂の南側の尾根にはVⅢ郭(千畳敷郭)を中心とした曲輪が築かれています。
近年行われた発掘調査で建物の礎石や壁土、食器類、茶道具などが見つかっていることから、居住のための空間であったと考えられます。
一方、山頂北側の尾根にはⅠ郭 (高櫓郭)を中心に大小様々な曲輪が階段状に配され、要所に堀切や土橋、切岸などが設けられていることから 防御のための空間であったと考えられます。
Ⅰ郭とV郭(御体塚郭)を取り巻くように築かれた石垣は、飯盛城が安土城に先行する本格的な石垣づくりの城であったことを物語っています。
これらの遺構は、三好長慶によって整備されたものと考えられ、「天下人の城」にふさわしい威容を誇っています。
   令和元年6月 大東市教育委員会

つづく。



2月5日(月)17:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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