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安寧天皇陵_新沢千塚古墳群公園_ 久米寺12

「史跡 益田池の堤 附樋管
           昭和五十五年三月二十八日指定

益田池は、現在の橿原市西池尻町、久米町、鳥屋町にかけての低地につくられた潅漑用のため池である。
「性霊集」巻二所収の「大和州×田池碑銘幷序」によると、弘仁十三年(八二二)に工事に着手したと伝えられる。
益田池の堤は、貝吹山から北に派生してくる鳥坂神社の位置する尾根と、鳥屋橋のある久米大地の西南先端部とのあいだをせき止めてつくられている。
長さは約二00mである。
現存する堤は長さ約五五m、幅約三0m、高さ約八mである。
堤の断面観察によると下層はアコーズとシルトの自然堆積で、上層には土器の混入が認められる。
昭和三十六年四月の河川改修の際、川底から樋管が二ヵ所で出土した。
その位置は堤の外側で樋管は東南東の方向にのびていることが確認された。
また、昭和四十三年九月に堤の内側にある橿原市下水処理場建設の際に樋門と思われる遺構が検出された。
この遺構と先に確認された樋管とが一連のものと考えると約九0mにわたって樋管が存在していたことになる。
樋管の時期については樋門と思われる場所から土師器の皿と黒色土器の椀が出土しており、池の築造時期とほぼ一致している。
益田池の堤および樋管は平安時代以来の治水事業を考える上で重要な資料である。
     平成元年3月 奈良県教育委員会」



「益田池の堤

この堤は高取川を堰き止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋端北側、南は鳥坂神社までの長さがあった。
しかし河川改修等の土木工事や土取りで昔の面影が失われてきている。
堤は10cm~30cmごとにつき固め徐々に背を高くしており、途中には黒灰色の強い粘着力のある土をはさんでいる。
高さは海抜80m前後で、現在残っている堤の部分では9m~10m積み上げられていることが判っている。
また堤の幅は広いところで40mに達するのではないかと考えられる。
昭和三十七年現高取川の改修工事の時に巨大な木樋が発見され、益田池に貯水される水量を調節するための導水管が敷設されていることが明らかになった。
推定貯水量は満水時に140万t~180万tである。
なお益田池の堤は、昭和五十五年三月二十八日県指定文化財となっている。」

下記のサイトによると、
益田池

「益田池(ますだいけ、ますだのいけ)は、大和国高市郡、現・奈良県橿原市にかつて存在したため池であり、現在は堤の一部以外消滅している。
橿原ニュータウンがその跡地に建設された。
平安時代初期、弘仁13年(822年)より、高取川に堤防を築いて水の流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池であり、天長2年(825年)に完成した。
益田池の完成にともない、空海(宝亀5年(774年) - 承和2年(835年))が揮毫した碑文「大和州益田池碑銘幷序」によれば、藤原緒嗣と紀末成が旱魃(かんばつ)の備えと土地の開拓のために造池を計画し、間もなく許可を得ると着工された。
その工事に人夫はもとより車や馬が数多く集まり無事竣工に至ったとされる。
これは、弘仁12年(821年)に空海が改修した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れた成果ともいわれる。
ただし、益田池の工事に空海は直接携わってはおらず、代わりに弟子の真円らが取り組んでいる。」

“益田”という地名は、近辺では“益田岩船”が知られているが、何らかの関係があるのかもしれない。
上記、wikipediaのサイトには、建造時期・用途について、

「最も古くからある説で、弘仁13年(822年)に築造された益田池を讃えた弘法大師の書による石碑を載せるための台であったとしている。
通称の「益田岩船」もこれに由来する。」

【参考:益田池碑銘帖 2版】
益田池碑銘帖 2版 - 国立国会図書館 デジタルコレクション



益田池の堤を後にし、高取川に架かる鳥屋橋を渡る。


小堂が目に入ったので立ち寄る。


地蔵菩薩だが、残念ながら上部が欠損している。
また、風化が著しく、お顔は妖×ではないが、のっぺらぼう(野箆坊)に見えてしまう。

つづく。



12月11日(月)06:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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