沼山古墳_益田岩船_牽牛子塚古墳_乾城古墳15 |
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| それにしても、このカタチは、一体どうなっているのか。 元からこのようなカタチだったのだろうか。 実のところ、驚くよりほかなかった。
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| 第二次世界大戦時の要塞に見えたりする。
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| 今、一瞬、思ったことだが、ピラミッドのミニチュアというイメージ。 しかし、次の説明書きにある“あさがお”の花びらに似ていたことが名前の由来というが、ここから眺める限り、まったく似ていないと思う。
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| 国史跡 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚とあさがお塚 牽牛子塚古墳は別名「あさがお塚」とも呼ばれ、江戸時代や明治時代の文献から墳丘が多角(八角)形をしており、「あさがお」の花びらに似ていたことから名前の由来になったと考えられます。
『万葉集』と越智岡 牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(小市岡)は高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が泳まれ、隣接する真弓岡や今城谷には天武天皇と持統天皇の檜限大内陵や吉備姫王の檜限墓など大王(天皇)家の葬地空間が広がっています。
『日本書紀』と小市岡上陵 『日本書紀』の天智天皇六年(667年)条に斉明天皇と間人皇女を合葬した「小市岡上陵」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されています。 間人皇女は斉明天皇の娘で孝德天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたります。 小市岡(越智岡)はまさに斉明天皇ゆかりの女性たちが眠っています。 明日香村
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| 越智岡から望む鳥瞰図。
つづく。
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3月10日(日)06:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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