野崎駅_野崎観音_河内飯盛山_四條畷神社9 |
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| 展望はまずまずだが、霞んでいるので遠望は利かない。
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| 「飯盛ハイキング道 眺望サイン」なるマップがあった。 実写の画像を使っていないのでわかりにくい。
これを見ると、先程見えていた緑のエリア(赤矢印)は、深北緑地公園だろう。
江戸時代、「野崎詣りは屋形船で参る」と歌われたように、八軒家浜から深野池の対岸にある野崎浜まで屋形船で行った。 その深野池は埋め立てされて、一部が深北緑地公園となっている。 深野池の東岸にあった野崎浜の東側、山麓に野崎観音があった。
【参考】 深野池
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| 野崎城
野崎城は、飯盛山南西の尾根、標高約111mの地点に築かれていた中世の山城で、城域は南北約200m、東西約180mと推定されています。 当時の山城は、尾根上に防御のための「堀切(空濠)」と「郭」と呼ぶ平坦地を設け、そこに簡易な建物を建てるのが通例で、野崎城も南東側に堀切を持つ本郭(現在地)と、その西側の尾根斜面に三段に設けられた四つの郭から構成されています。 当時は深野池が山麓まで迫り、飯盛山からの尾根が最も突き出している当地は、眼下の東高野街道の交通を掌握することができる、地勢的に要衝の地でした。 『太平記』によると、四條畷合戦(1348)において、北朝軍の縣下野守がこの地に陣を置き、南朝軍の楠木正行と対峙した記述があり、この頃から、戦略上重要な地点であったことが推定されます。 応仁の乱(1467)以降の戦国期には、この地域でも頻繁に合戦が行われていたことが、当時の日記である『尋尊大僧正記』や『後法興院記』などに記され、その中に「野崎城」の文字を見ることができることから、この城が15世紀中頃には築かれたいたことが推定されます。 このように、軍事上重要な役割を担った野崎城は、北東の山上に飯盛山城が築かれた16世紀中頃以降は、その出城としての機能も有していたと考えられています。 平成23年11月 大東市教育委員会
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| 野崎城址で休憩中。
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| こちらは、これから登る「飯盛ハイキング道」の案内図。 野外活動センターまでの行程を示しているが、我々はここに立ち寄らない。 赤矢印の方向(北西)へ進む。
つづく。
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1月30日(火)05:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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