山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


ウォーキング・散策

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)37

京都成章(せいしょう)高校を左に見て歩く。


京都霊園入口の看板を見てR9を横断。京都霊園の中に入っていく。


京都縦貫道の高架下を潜る。


正面に霊園の管理事務所が現れ、管理事務所の右側の道を歩く。尚、管理事務所近辺にトイレはなかった。


この先、道に迷いやすいと事前に下調べしておいた。過去にこのルートを歩かれた方がWebサイトにアップされているものを印刷してこの日持参していた。手に持つ資料の左上の画像が正に今居るこの場所。

この資料は『街道歩き旅 山陰道・老ノ坂峠越』(京都丹波口~亀岡駅)



12月26日(土)21:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)36

道路の右側(東)に民家が何軒かあって地元産の柿を売っていたようだ。11月末で販売を終えたと記している。歩いた日は12月1日。


山陰道(府道142号線)沿いに建つ民家。虫籠窓が見られるが左右の形が違っている。右の曲線がある方が時代が古いと聞く。


この民家では柿の販売をされていた。「大枝特産冨有柿」の看板が掲げられている。右の籠に置かれている柿は試食用か。家の人は新聞を読んでいた。


あたりの様相が一変し、ラブホ街を歩くことになった。


やがてR9に合流するが、ラブホは左右に点在。R9のクルマの通行量はさほど多くない。


12月25日(金)18:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)35

手前に拝殿と奥に本殿。


拝殿前から参道を振り返って撮影。


大枝神社を後にする。すぐに桓武天皇御母御陵参道の道標が現れる。桓武天皇の御母とは、平安遷都を行った第五十代・桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ)


右斜面に「愛宕山」と彫られた新しい石灯篭。その上に祠が見える。後で調べると祠には関明神が祀ってあり、このあたりが「大江の関」跡。


やがて前方に京都縦貫道の高架が現れる。手前の川は小畑川。


12月25日(金)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)34

右手からの山陰道に合流する三叉路の角に愛宕山大権現と彫られた石灯籠が建っていた。石灯籠の周りはナンテンの木。


電信柱に「山陰街道沓掛」の道路標識が掲げられている。

※「沓掛」という地名についてコトバンクによると、日本各地の宿駅に残る地名。旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれる。



京阪京都交通沓掛バス停前を通過。少しの区間だけ(100m程度)東海自然歩道となっていた。山陰道は東海自然歩道を離れて直進。


すぐ右手に大枝(おおえ)神社の鳥居が現れる。急な階段を登る。


大枝神社の駒札。【一部割愛】

康保四年(967)施行の「延喜式」には神社の名前として『乙訓郡大井神社』と記載されている。現在の氏神は高美計神(タカミケ神)である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている。しかし、はじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたところから千兒明神と称していた。現在、兒児神社はこれより東方、大枝塚原の地にある。境内には「享保八年(1723)と記された石灯籠があり、江戸時代にはさかえた様がうかがわれる。神紋は二葉葵である。【以下割愛】

京都寺社案内*大枝神社



12月25日(金)18:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)33

山陰道(府道142号線)から西、小塩山方向の眺め。


ここで突然、山陰道から離れ、マンション(ヴェルドミール桂坂)横の脇道に入る。里道か畦道だろう。すぐ右手に柿畑が現れる。


桂坂口バス停前を通り、バスが通る車道を横断。


再び、脇道へ。


やがて小さな小川に架かる「古世谷小橋」を渡って道なりに進むと古民家が現れる。入り口の引き戸は風情ある障子戸。障子の枠の右上、障子が貼っていないように見える。家の中から外を眺める窓か。


12月24日(木)18:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)32

兒子神社(ちごじんじゃ)の説明板。【一部割愛】

塚原宮田にあり、祭神は兒子大国御魂神を祀る。聖徳太子の幼児の像が祀られてあるので、兒子神社と呼ばれていると云われている。寛文十一年に祭祀境内地七反五畝十歩、境内に四社の末社があり、一説には茨田神社址であるとも云われているが、大枝の地が宇波多と云われているところからきたものと思われる。【一部割愛】 明治六年、村社に公定される。  

京都寺社案内*児子(兒子)神社



境内に植えられたモミジの紅葉。


こちらのモミジは葉っぱがほとんど落ちているが、青空に映える。


クスノキの御神木、幹が幾つにも分かれており圧倒される。


兒子神社を後にする。


12月24日(木)18:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)31

やがて奥まったところに称念寺が現れる。ここは立ち寄らず昼食予定地の兒子神社へと向う。


民家の路地裏のような狭い道を辿って、兒子神社の駐車場に到着。参道へ出る。画像は参道途中の鳥居。二の鳥居だろうか。まだ新しい。


真新しい拝殿に腰を降ろして昼食タイムとなる。画像は拝殿から歩いて来た参道方向を撮影。


昼食後、境内を歩いてみる。右奥が昼食場所の拝殿。境内は想いの外広い。


境内のモミジはこの頃が一番の見頃だったようだ。


12月24日(木)18:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)30

やがて右側(北)に三ノ宮神社の社標と石灯籠が現れる。時間の都合で立ち寄らず。ここを昼食場所として考えていたが陰気なのでパスし、次に訪れる兒子神社(ちごじんじゃ)を予定地とした。


下狩(しもかり)川に架かる下狩橋を渡ると、左側(南)に京都市立大枝(おおえ)小学校が現れる。


大枝の集落に入って行く。山陰道に出合う直前に茅葺の民家がある。


この先、山陰道に入って右折すべきところを、茅葺の民家の手前の小道を北へ歩いた。この道は到底街道とは思えない。


ここから兒子神社まで迷走することになるが、石仏が祀ってあったりするので比較的快適に歩くことが出来た。


12月23日(水)19:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)29

地福寺の境内からの眺め。地福寺は小高い丘のような場所に建っている。


境内で見られた石仏群。一ヶ所に集められていた。


この石仏は祠の中に祀ってあった。古い時代のものなのだろう。花崗岩に彫られている。


境内に植えてあったマユミの実。可愛らしい実が鈴なり。


地福寺を後にし、元来た道を分岐まで戻り、三ノ宮神社を目指して歩く。画像は古民家。今歩いている道は、どうも旧山陰街道ではない気がした。


12月23日(水)19:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)28

この先も地福寺の道標が所々設置されていたので迷うことなく歩けた。竹林の中に続く舗装道路を進む。


京都市のマンホールの蓋。中央に市章。周りは「御所車」をモチーフにデザイン化したもので、職員のアイデアらしい。


道標に従って歩く。ここは左折。


タマネギの苗だろう。今が植付の適時。


地福寺に到着。画像は本堂。どうやらお寺へは裏側からアプローチしたようだが、ちゃんと道標があった。後で調べると表側からの道は非常に狭く、わかりにくいらしい。なので裏側から来て正解。地福寺の山号は天林山。西山浄土宗。

京都寺社案内*地福寺



12月23日(水)19:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)27

墓地を右に見送り、暫く歩くと下り道となり、左に新山陰街道(府道142号線)が見えてきた。


新山陰街道に合流するすぐ前に石碑がある。「維新殉難志士墓在此丘上」と彫られていた。


そして傍らに駒札。

「樫原札の辻 三士殉難の地」
この樫原の地(元葛野郡岡村。のち川島村と合併して川岡村)は、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられていた所である。元治元年(一八六四)七月一九日早朝より始まった蛤御門(はまぐりごもん)の変では、長州藩は会津、薩摩の両藩を中心とした連合軍に敗れて、多くの兵士が捕殺された。この時、長州勢に属していた三名の兵士がこの地まで逃れてきたが、幕命によりこの辻を警備していた小浜藩兵に囲まれ、討たれて果てた。遺体は放置されていたが、村人たちによってこの丘の中腹に手厚く葬られ、墓標が建てられた。長州集義隊 楳本僊之助直政、 元下野宇都宮藩 相良頼光、 同 相良新八郎 なお、相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれている。京都市



新山陰街道(府道142号線)は更に道幅が広くなった新道(R9)に出合い、樫原秤谷の交差点に出た。ここから道がわからなくなったが、後で調べると、交差点を渡ってすぐ右手にパチンコ店(パチンコスーパードーム桂店)があって、その駐車場から西方向の竹藪へと登って行く仮設のような道を辿れば竹林の中の旧道に入って行けたようだ。


道路幅が広くなった新道(R9)ではなく、舗装された山陰道(府道142号線)を歩き、アイシン京都事業所前の三叉路で、地福寺の道標を見つけ、旧山陰道とみられる道に出ることが出来た。しかし、この道が旧山陰道かどうかは疑わしい。


12月22日(火)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)26

祠の中に祀られた石仏たち。画像左に見える道路が新山陰街道(府道142号線)だが、このひとつ北側、画像の右側の旧道を歩いた。


これは排気口だろう。下に見える舗装道路が新山陰街道(府道142号線)。


やがて旧道は地道となり、藪っぽい竹林の中に続く。


すぐに墓地が現れた。


後で地図を見ると、旧道は墓地の中を歩くようだが、我々は墓地の中に入らず、墓地を右に見て進んだ。


12月22日(火)20:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)25

やがて道が左にカーブした左手に鳥居が見えた。三ノ宮神社の御旅所。
その前が、三ノ宮のバス停(京都市バス・京阪京都交通共通)となっていた。バス停前に巨樹が見える。



巨樹はクスノキで御神木。


地図にあるように、旧山陰街道は右折だが、地図を見ずに私だけ→の方向(新山陰街道)に歩いてしまった。しかし、この先ですぐ合流。


三宮神社を示す石の道標を左に見て歩くと、指の形を模った道標が現れた。「秤谷道」と彫られているように見える。このあたりの住所は西京区樫原秤谷町(かたぎはらはかりだにちょう)。


右上からの旧山陰道と合流。祠が見える。


12月22日(火)19:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)24

これは井戸ではないと思うが、どういうものかわからない。


やがて右手(北)に立派な屋敷が現れる。樫原陣屋跡(本陣)。


樫原陣屋跡(本陣)の駒札。

山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていました。徳川三代将軍家光公が参勤交代制をはじめますが、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名が宿舎とした所です。最奥の六帖は上段の間につくり、欄間・床・違棚のある書院造りの立派な建造物です。上段の間の横には隠れ間も存在します。玄関の間、六帖、八帖、六帖と四室が続き、その他、七室の併せの構えはまことに立派の一言に尽きます。諸大名が出入りした玄関間は乳門といわれています。玄関の天井板には、筆太に書かれた「高砂少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。大名の宿帳や関札などの多くの古文書も蔵されています。この本陣は、頼まれ本陣とも口伝され、享保4年に、当地の豪族廣田庄兵衛永張が京都所司代板倉氏の依頼により経営に従事、安政二(一八五五)年に、松尾下山田の豪族で足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで五代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣建築であり、平成4年4月1日に京都市指定有形文化財となりました。



公会堂前のバス停を通過。古民家を利用した町屋カフェ「カフェ ちゃーみーちゃっと」


最近リニューアルされた格子の民家。景観にマッチしている。


12月21日(月)19:04 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)23

小畠川の駒札。

小畠川(こばたけがわ) 公称名は、洛西西幹線用水路であるが、昔から、小畠川別名明智川と呼ばれてきた。嵐山渡月橋畔大堰川から分かれ、「京の五ツ岡」の一つ西の岡十一郷一帯の田畑を潤している。この用水路には種々の逸話が残っています。天正十(1581)年六月二日、本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は、早々に引き上げてくる途中のこの場所で落馬された。それを村人が見て、おにぎりでも食べて少し落ちつきなさいと腰掛も用意する親切をした。明智光秀は礼を言いながら、ときに東の火事は何処であるかご存じか、当てたら望の物を与えよういわれた。村人は即座に、本能寺であると答えると、見事だ何かしてほしいものはないかといわれた。村人は、この辺の水田には水が不足だから、川を造り水を通してほしいと申し出た。光秀はただちに着工したというのである。しかし、光秀は三日後に秀吉に敗れている。この川は信長の命を受け、天正三(1575)年、丹波平定のおり、樫原を補給基地とし、老の坂から樫原・桂までの道を整備した時に、併せて溜池や灌漑用水路を築造したのです。明智川と呼んだのは光秀の領民に対する政策の善かったことの例左でしょう。



小畠川(別名明智川)の流れ。


格子の家。


なにやら見覚えのある折り畳み式の台。


「揚げ素戸ばったり床机」の説明板。

樫原は山陰街道の一番「みやこ」寄りの宿場町で、丹波丹後や方々からの物資の集積地として非常に賑わった町でした。道路から「1間」程後退した所に、母屋があり、物資の置場、往来の方々の休息に、そして景観を考えての建物で、「虫こ窓に紅がら格子」の意匠は今も数多く残って居り、殊に、この藤岡さんの家は「揚げ素戸ばったり床机」の建物で多くありましたが、現在はこの一戸のみで貴重なものです。 樫原町並み整備協議会(英)



12月21日(月)19:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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