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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


山陰道(丹波口駅_亀岡駅)27

墓地を右に見送り、暫く歩くと下り道となり、左に新山陰街道(府道142号線)が見えてきた。


新山陰街道に合流するすぐ前に石碑がある。「維新殉難志士墓在此丘上」と彫られていた。


そして傍らに駒札。

「樫原札の辻 三士殉難の地」
この樫原の地(元葛野郡岡村。のち川島村と合併して川岡村)は、江戸時代には交通の要衝として、本陣や旅宿が設けられていた所である。元治元年(一八六四)七月一九日早朝より始まった蛤御門(はまぐりごもん)の変では、長州藩は会津、薩摩の両藩を中心とした連合軍に敗れて、多くの兵士が捕殺された。この時、長州勢に属していた三名の兵士がこの地まで逃れてきたが、幕命によりこの辻を警備していた小浜藩兵に囲まれ、討たれて果てた。遺体は放置されていたが、村人たちによってこの丘の中腹に手厚く葬られ、墓標が建てられた。長州集義隊 楳本僊之助直政、 元下野宇都宮藩 相良頼光、 同 相良新八郎 なお、相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれている。京都市



新山陰街道(府道142号線)は更に道幅が広くなった新道(R9)に出合い、樫原秤谷の交差点に出た。ここから道がわからなくなったが、後で調べると、交差点を渡ってすぐ右手にパチンコ店(パチンコスーパードーム桂店)があって、その駐車場から西方向の竹藪へと登って行く仮設のような道を辿れば竹林の中の旧道に入って行けたようだ。


道路幅が広くなった新道(R9)ではなく、舗装された山陰道(府道142号線)を歩き、アイシン京都事業所前の三叉路で、地福寺の道標を見つけ、旧山陰道とみられる道に出ることが出来た。しかし、この道が旧山陰道かどうかは疑わしい。


12月22日(火)21:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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