Duo Rosanna |
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| “Duo Rosanna”こと、Anna Comellas (cello) and Rosalind Beall (guitar)を視聴してみよう。
Scarborough Fair
Canon in D - Pachelbel
Jesu, Joy of Man's Desiring - Bach
Pavane - Fauré
La Vie en Rose
Perhaps, perhaps, perhaps
Dream a Little Dream of Me
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3月18日(月)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理
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(続々)金剛山(千早本道_千早城跡) |
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| 千早本道(楽な道)の下山口に設置されている「史跡 金剛山」の石柱と説明板。
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| 千早城跡に設けられたコンクリート製の東屋。 ほとんど利用されていないようだ。
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| 境内は綺麗にされているが、人の気配がまったくなくひっそりとしている。 千早神社にて。
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| 刺身とおでん盛り合わせ。 反省会は恵美寿屋地酒道場 (あべのルシアスビルB1F)にて。 朝10時より営業
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| メニュー。 とてもリーズナブル 欠点は座席が隣の人との間隔が狭く、ゆったりと出来ないこと。 大阪の店は何処でもそうだが。
おしまい。
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3月17日(日)20:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続)金剛山(千早本道_千早城跡) |
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| バイオトイレが二基設置されている。 五合目にて。
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| 五・五合目を示す道標。 金剛山は林道終点から一合目、二合目となり山頂付近が十合目となる。 黄色いテープは夜間登山者用の反射板。
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| 山頂付近の残雪。 かまくら跡?
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| 金剛山の定番撮影スポット。 到着したのは11時17分。
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| 国見城跡から北方向、関空がよく見える展望台への道。 完全に崩落しており立ち入ることは出来ない。 但し、迂回路がある。
つづく。
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3月16日(土)18:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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金剛山(千早本道_千早城跡) |
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| 2019年2月21日(木)は、現役時代の同僚と二人で金剛山へ登った。 コースは千早本道をピストン。 但し、下山は千早城跡を経由した。
<概要> 千早本道は金剛山の最もポピュラーな登山コースで、登攀(登拝)記録が1万回以上という人もいる。(1万5千回以上は1名) 1万回というのは、毎日登ったとしても、27年と145日かかる。(365日×27年+145日=10,000回) しかし、一日に何回も登山すれば、これほど時間はかからない。 以前、そのような人を見たことがある。 山から走って降りて来た人が、峠で突然Uターンして再び登り返すというパターン。
ところが、今は一日一回しか登攀記録に記帳できないと聞いた。 金剛山には登山回数を記録するシステムがある。 (回数の記録は金剛山練成会への入会が必要)
山歩きを始めた頃、千早本道を歩いて金剛山に登ったことがある。 その後、金剛山は何回も登っており、私にはお馴染みの山となっている。 しかし、後にも先にも、このコースを歩いたのは一度限りで、この日が記念すべき二回目となった。
今まで千早本道を歩かなかったのは、印象が悪かったから。 もっとも、今となれば、その時の具体的な記憶はほとんど残っていない。 「二度と歩きたくない」という強烈なイメージがあった。
今回、二回目となる千早本道を歩いた感想は、意外にも歩きよい道だという印象。 但し、千早本道は登山口から二つのルートがある。 千早城跡を経由するのと妙見谷を登り詰めるルート。
昔、歩いたのは千早城跡を経由するルートだったと思われる。 今回、下山にこのルートを歩いたが、やたら石の階段が多くて、それも段差が大きく、非常に歩き難い登山道だった。 僅かに単独行の男性と出会ったが、こちらも驚いたが、相手も驚いていた。 何を驚いたかと云えば、こんな道を歩く登山者は、私達以外には誰もいないだろうと、お互い思っていて、そうでなかったから驚いたというわけ。
妙見谷を経由する千早本道は、階段が多いが段差は小さいので歩きやすい。 よく整備されていて、倒木は勿論、棒切れさえ落ちていない。 なんと夜間登山者用に登山道に反射板が取り付けられていた。
今回、二回目となる千早本道を歩いた感想は、妙見谷を歩くルートだと、何回も登ってみたいという人の気持ちが分かる。
昼食は定番となっている国見城跡にて。 国見城跡からセト方面へ続く登山道は、国見城跡付近で崩落していた。 また、国見城跡から北方向、関空がよく見える展望台への道も崩落して歩くことは出来ない。 これらの登山道は完全に崩落してガレ場となっており、立ち入ることさえ出来ない。 但し、迂回路がある。
千早本道を歩くと登山口から国見城跡まで距離約3km。
<コース> 8:35JR関西本線平野駅8:40_<クルマ>_9:50金剛登山口 豊田駐車場9:54_まつまさ前_三叉路で右折 千早本道(林道妙見谷線)を歩く_石仏(十三佛 第三番~第十三番まで山頂付近まで町石が続く)_千早神社 裏参道分岐を右に見送り引き続き千早本道を歩く・千早城跡案内図_林道妙見谷線(舗装道路)終点_千早城本丸跡方面分岐を右に見送り金剛山頂方面へ直進・掲示板(標高634米)_二合目_記念碑(故窪添之介翁碑)_楠木正儀墓(楠公首塚説あり 1680年建立)_分岐・すぐ先で合流_仏花_三合目_道標(千早本道 ほ-1)_道標(千早本道 ほ-2)_四合目_五合目・金剛山頂へ一四〇〇米・ベンチ・東屋・バイオトイレ二基・ウルトラマンとバルタン星人の石像物_道標(千早本道 ほ-3)_五・五合目_六合目_分岐・すぐ先で合流_六・五合目_道標(千早本道 ほ-4)_七合目_七・五合目_石柱(楠公史蹟 阿南八勝第五蹟金剛山)_八合目_登山口新道分岐を見送り山頂方面へ直進_九合目・金剛山頂へ三〇〇米・分岐で楽な道を左に見送り山頂近道へ右折_道標(千早本道登山口へ約3km)_掲示板(金剛練成会員50回以上登拝者名)_かまくら跡?_11:17国見城跡・昼食11:34_トイレ_道標(←千早本道登山口へ約3km)_<楽な道>_説明板(史跡 金剛山)・石柱(史跡 金剛山)_国見橋を渡る_九合目_<千早城本丸跡方面分岐まで往路と同じ>_千早城本丸跡方面分岐で左折し千早城本丸跡方面へ・道標(左楠公城跡)_東屋_分岐を左に見送り直進_道標(←茶宴台経由千早神社 金剛山登山道)_千早神社_石柱(史蹟 千早城址)_掲示板(日本の100名城 千早城)_千早城址茶店前_説明板(国史跡 千早城跡)・府道705号線出合・富田林警察千早駐在所前_12:48金剛登山口 豊田駐車場
<メモ> ・参加者: 2名。 ・コース歩行 (豊田駐車場~豊田駐車場までの所要時間と距離) 歩行距離: 約6.2km。 所要時間: 2時間54分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約13.9km。(0.67m×20,679歩=13,854m) 歩行時間: 3時間34分。 歩数: 2万1千歩。 ・反省会:恵美寿屋地酒道場 (あべのルシアスビルB1F)
画像は豊田駐車場から金剛山をピストンしたGPSログを表示。 但し、登りは「妙見谷林道」を歩き、9合目から「近道」を歩いて山頂へ。 下山は9合目まで「楽な道」、途中、妙見谷を離れ千早神社・千早城跡へ立ち寄り、表参道を歩いて駐車場へゴールした。
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| 千早本道、唯一の水場。 山の伏流水。 口を付けず。
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| 千早城跡案内図。この地図は上が南を表示している。 千早イシタケセンター(今はない)の南、トイレP駐車場にクルマを駐車した。(1日600円) 林道(妙見谷線)を歩いて現在地にいる。 この後、林道をそのまま歩いて金剛山頂へ。(林道は途中から登山道に変わる)
下山は楠木首塚付近の分岐で、林道を離れ千早城跡方面へ。 千早神社、三の丸跡、社務所、四の丸跡広場を経て表参道を歩き、登山口バス停前から駐車場へゴールした。
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| 楠木正儀墓(楠公首塚説あり)から金剛山頂への登山道を眺める。 傾斜はかなり急で、階段になっているが、階段の段差が小さく歩きやすい。
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| ウルトラマンとバルタン星人の石像物。 千早本道五合目にて。
つづく。
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3月15日(金)18:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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(続々)千里(南・中央・北)公園_大阪大学 |
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| 北千里駅方面へ向かう途中、千里青山台団地では、懐かしい昭和時代に建設された団地を見ながら歩いた。
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| 北千里駅近くになるとURのマークが付いた巨大な賃貸住宅ビルが現れる。
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| 植栽されたフクジュソウ。 千里北公園にて。
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| 街路樹として植栽されたタイワンフウの実。 タイワンフウは私が住んでいる近くの菖蒲上池でも見ることが出来る。
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| 野生化したオキザリス。別名:オオキバナカタバミ。 この花の開花時期は4~9月とされるが、自宅のオキザリスは真冬に咲いている。 温暖化の影響かもしれない。 逆に真夏にはほとんど花が咲かないし葉も消える。 画像は群生しているが、自宅もこれと同じ。 但し、群生するのに結構時間が掛かった。
おしまい。
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3月14日(木)18:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)千里(南・中央・北)公園_大阪大学 |
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| ユーカリの木があったので、葉っぱを揉んで匂いをかいだが、清涼感のあるハーブの香りがした。 これは覚えておきたい。 知ってる?コアラがユーカリを好きな理由
千里南公園にて。
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| 千里南公園には牛が首池の北半分を利用して鯉の釣り堀がある。 料金は大人700円、中学生以下500円。 貸竿(エサ付)大人千円、中学生以下700円。 釣り時間8:00a.m.~4:30p.m. 千里南公園(大阪府吹田市)
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| 千里中央公園は千里南公園と比較すると、散歩する人も少なく寂しい感じ。 “中央公園”の名があるが、所謂“千里中央”ではなく、新千里東町より更に東、豊中市の東端に位置している。
展望台に立ち寄ろうとしたが閉鎖されていた。
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| 「オバQ / 辻 普堂 / 寄贈 株式会社 住友銀行」と彫られた野外彫刻。 オバQに似ているかどうか!? どの部分が目?口?・・・という話で盛り上がった。 ネット検索すると設置年月は昭和45年、設置者:大阪府。 千里中央公園にて。
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| 府道吹田箕面線緑道の案内図。 第26回緑の都市賞を受賞している。 この後、現在地から北へ歩き、右折して新千里3号線を北千里駅方面へ歩いた。
つづく。
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3月13日(水)19:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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千里(南・中央・北)公園_大阪大学 |
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| 2019年2月17日(日)は、おおばこの会に参加した。 タイトルは「千里緑道から万博公園へ~都市の森を探検しよう~」。 スタートは阪急千里線南千里駅。ゴールは同線山田駅。 (但し万博記念公園駅から山田駅までは大阪モノレールに乗車)
<概要> 阪急千里線南千里駅から北に向かって歩く。 すぐに千里南公園に到着。
梅林、桜林(さくらばやし)があったが、先の台風の影響とみられる倒木が随所に見られた。 倒木は放置することなく整備されていた。 梅林は木の剪定がなされておらず、間延びしていて蕾も少なく樹勢は弱い。
千里南公園を後にして津雲台公団住宅の中を歩く。 津雲公園を目指したが、歩くコースが西にズレてしまい、結局訪問せず。
中国自動車道に架かる上新田跨道橋を渡ると、行政区が吹田市から豊中市に変わる。 「豊泉家 千里体育館」が見えその奥に千里中央公園が続いている。 “豊泉家”はネーミングライツと思われる。 ネーミングライツとは
千里中央公園でトイレ休憩。 展望台に立ち寄ろうとしたが立入禁止になっていた。
府道吹田箕面線緑道を歩いて、北千里駅方面へ向かう。 途中、千里青山台団地では、懐かしい昔の団地の光景を見ながら歩く。
この道は「三色彩道」(さんしきさいどう)という名前が付けられている。 吹田市唯一の紅葉の名所で、秋には街路樹のタイワンフウが真っ赤に色づき、赤・黄・緑の3色に彩られるそうな。 ピアノ池・三色彩道コース
大阪大学の表示板を見て直進。 昼食予定地の水遠池(ずいおんいけ)へ向かうが、護岸の改修工事中で柵が設けられ、園路は通行止めとなっており、水遠池の近くに立ち入ることさえ出来ず。 この為、千里北公園で昼食を取ろうとしたが、東入口が閉鎖されていた。 付近を歩く人に聞いて、公園の周りをほぼ一周して西入口から入り昼食。
昼食後、護岸改修工事中の水遠池の塀に沿って東へ歩き大阪大学吹田キャンパスに入る。 阪大微生物病研究会、大阪大学飛行機制作研究会など、キャンパス内は高層ビルが林立する。
やがて、キャンパスから出て万博記念公園へ向かおうとしたが、出口が見当たらない。 方向的には南で、キャンパスの地図を見ると、正門が南端にあったので正門を目指して歩く。 ところが、日曜日ということもあって、正門は閉ざされており、外に出られない。 この時、左方向に踏み跡があったので辿ったが、後で確認すると、右へ行けばすぐに出られた。 おまけにそこは万博記念公園の入口にもなっていた。
成り行きで左方向へ進むと、大阪モノレール阪大病院前駅を通らざるを得なく、駅の中を通り抜けた。 その後は、延々と万博外周道路脇の歩道を歩くことになった。 塀の向こう側は万博記念公園だが、入口が見当たらない。
万博記念公園駅に到着すると、当初予定していた万博記念公園の散策はT氏のみ参加され、他の者はそのままモノレールに乗って帰路に着いた。 私は山田駅で阪急千里線に乗り換えたが、大多数の人たちは、千里中央駅に向かったようだ。
以上、この日歩いたコースは下見が十分に行われていなかったようで、スムーズに歩くことが出来なかった。 1.昼食予定地の水遠池(ずいおんいけ)は、護岸の改修工事中で柵が設けられ、池の近くに立ち入ることさえ出来ず。 2.その為、千里北公園で昼食を取ろうとしたが、東入口が閉鎖されており、公園の周りをほぼ一周して西入口から入る破目に。 3.大阪大学構内から外へ出る際、日曜日で正門は閉門。大回りして大阪モノレール阪大病院前駅を経由して大学の外へ出た。 4.塀の向こう側にある万博公園へ入るのに、万博公園の周りに通じる万博外周道路を塀に沿って延々と歩いた。 後でわかったが、正門から西、グランドに沿って歩くと、万博口(歩行者通用門)があった。
<コース概略> 9:12阪急千里線南千里駅9:38_千里南公園_千里中央公園_千里北公園・昼食_大阪大学吹田キャンパス_14:00万博記念公園駅_<大阪モノレール>_14:15山田駅
<メモ> ・参加者総勢: 14名。 ・コース歩行 (南千里駅~山田駅までの所要時間と距離 但し万博記念公園駅から山田駅までは大阪モノレールに乗車) 歩行距離: 約14.2km。 所要時間: 4時間37分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約17.2km。(0.67m×25,672歩=17,200m) 歩行時間: 4時間2分。 歩数: 2万6千歩。
画像はこの日歩いた阪急千里線南千里駅から大阪モノレール山田駅までのGPSログを表示している。 (万博記念公園駅から山田駅までは大阪モノレールに乗車)
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| 画像右端の女性はT先生のお知り合いで、この近辺に以前からお住まいとのこと。 この日は行程の途中までサポートして頂いた。
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| 千里南公園案内図。 梅林、桜林(さくらばやし)があって、驚くことに釣り堀があった。
牛が首池は名の通り牛の首に見える。
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| 水鳥や手入れされた花壇に心が和む。 千里南公園、牛が首池にて。
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| 釣り堀で鯉を釣る人。 スイセンがほぼ満開。 同じく牛が首池にて。
つづく。
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3月12日(火)18:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(No.4)追分梅林 |
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| 「→矢田× / 大阪 深× / ?宿坊」と刻まれている。 この辻は矢田寺方向の分岐になっている。
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| 常夜燈には「木嶋社 / 闇夜燈 / 往来安全 / 天保七年 / 取次 山上×兵衛」と刻まれていた。 “木嶋社”は「登彌神社」(とみじんじゃ)を指している。
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| 間男(まおとこ)地蔵。 旧砂茶屋の辻に祀られている。 辻の向い側には富雄村道路元標が埋められていた。 奈良市中町 地蔵堂〔間男地蔵〕
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| 享保六年の銘。
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| R308、左に瓢箪池を見て進み、新池の手前で左折。 祠に祀られた双石仏他石仏が数体。
おしまい。
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3月11日(月)18:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続々)追分梅林 |
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| 奈良市指定文化財村井家住宅。 家の周囲には道標や石像物が多く立つ。
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| 道標。 残念ながら読めない。
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| 一部の文字が判読出来なかった。 ネット検索すると、「右 こをりやま 左 なら はせ いせ 道 / 左 なら はせ いせ 道」。
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| 追分梅林の記念碑。 後方は砂土を入れている。 かつてのウメ畑の姿はない。
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| R308の辻に立つ道標と右奥に常夜燈。 右の電信柱の手前に石柱が見える。 石柱には“一〇七一二号”と刻んであったが意味不明。
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3月11日(月)18:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)追分梅林 |
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| 五輪塔。大きくて立派。 欠損はないように見えた。 永禄七年の銘。 中町笹谷共同墓地にて。
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| 昔、手前の“棺台”に棺桶を置いたのだろう。 この棺台の形からすると、長方形の寝棺ではなく、土葬用の座棺を置いたように見える。 土葬は明治時代までは多くの地域で行われていた。 ちなみに、私の母方のお祖父さんは土葬だった。 私が小学生の頃(昭和40年くらい)の話。
中町笹谷共同墓地にて。
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| 蓮華座状の棺台。 カビのようなものが生えており、今は使われていない。 ★梵字(キリーク)→ 阿弥陀如来
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| 受取地蔵ではなく弥勒菩薩? ★梵字(バク)→ 釈迦如来
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| かつてウメ畑が広がっていた追分梅林。 よく見ると、新たにウメの木を植栽されていた。
つづく。
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3月10日(日)18:20 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理
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追分梅林 |
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| 2019年2月13日(水)は自宅付近をウォーキングした。 観梅にはまだ少し早かったが、奈良市の追分梅林の様子を見に行った。
<概要> 追分梅林は奈良市中町(なかまち)にある。 “中町”は奈良市の南西部に位置している。 画像の通り広大な範囲で、一体何時頃から“中町”と呼ばれるようになったのか知らないが、ごく最近だろう。
“追分”は旧称で暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)にあって、由緒ある名前が住所表示から消えるのは、如何なものかと思う。 新興住宅地には“さつき台”やら“ヒノキ台”、“若草台”など、歴史とまったく関係のない名前が付けられるが、過去の歴史など顧みる必要がないと云うことはないだろう。
それは兎も角、追分梅林は30年くらい前からウメの花見として訪れていた。 ところが、3年くらい前だったか、久しぶりに訪問したら、畑の回りに塀が築かれ、外から中の様子が見えないようにしてあって驚いた。 僅かな隙間から覗くと、ウメ畑が宅地造成されつつあるように見えた。 一体、何故!? こんなところに住宅?
この疑問はずっと解決しなかったが、この日地元の人から、事情を聞くことが出来た。 私はてっきり、ウメの木を枯らすウイルスに感染したのかと思っていたがそうではなかった。 時期的にも少し違っている気もしていた。
地元の人の話では、ウメ畑が水没したという。 山から流れる水の方向が変わったと話された。 どの程度水没したのか知らないが、かなりの傾斜地にウメ畑がある。 水没した時の光景が目に浮かばないが、大雨だったのかもしれない。
水没をきっかけに、今後どうするか皆から意見を聞き、多数決でウメ畑を再生することにしたという。 元のウメ畑に戻るには30年くらいか、もっとかかるだろう。 10年くらいで、チラホラ花が見られるかもしれない。 しかし、気の長い話だ。
画像は奈良市中町の範囲を示している。
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| <コース> 自宅11:53_蛙股池_奈良西警察署前_学園大和第3号街区公園前_阪奈道路の高架下を潜る_奈良市立富雄南中学校前_杣川に架かる橋を渡り右岸へ_県道7号線に架かる歩道橋を渡る_富雄川に架かる橋を渡る_奈良市立富雄南小学校前_石仏_石仏_大日寺_五輪塔_中町笹谷共同墓地_第二阪奈有料道路に架かる跨道橋を渡る_追分梅林_奈良市指定文化財村井家住宅前_道標(右 こをりやま 左 なら はせ いせ 道 / 左 なら はせ いせ 道)_記念碑(追分梅林 記念碑)_奈良市企業局 大和田配水池前_分岐で若草台方面を右に見送り左折_第二阪奈有料道路の高架下(高さ制限2.5M)を潜る_R308_住所表示板(中町山ノ上)_山上庵前_道標(→矢田× / 大阪 深× / ?宿坊)・石柱(一〇七一二号)・常夜燈(木嶋社 / 闇夜燈 / 往来安全 / 天保七年 / 取次 山上×兵衛)_体験農園場 大和の里前_富雄川に架かる下鳥見橋を渡る_富雄村道路元標_間男(まおとこ)地蔵_砂茶屋交差点で県道7号線を横断_la Brique(ラ・ブリク れん瓦窯焼パン工房)入口_赤膚焼窯元大塩昭山前_第二阪奈有料道路の高架下を潜る_瓢箪池を左に見て新池の手前で左折・祠(双石仏他石仏数体)_奈良市立伏見南小学校前_蓬莱神社前_14:17自宅
<メモ> ・コース歩行 (自宅~自宅までの所要時間と距離) 歩行距離: 約10.1km。 所要時間: 2時間24分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約9.7km。(0.67m×14,473歩=9,696m) 歩行時間: 2時間8分。 歩数: 1万4千歩。
画像は自宅から追分梅林まで、時計回りと逆方向に周回したGPSログを表示。
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| 辻に祀られていた石仏。 この場所に祀られている限りは安泰かもしれない。 しかし、道幅を広める為、水路を塞ぐことになれば、どこかへ移動することになるかも。
奈良市中町、中町公民館南側の辻にて。
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| すぐ近くに、もう一体の石仏が見えたので、少しだけ寄り道して立ち寄った。 石仏は古いが台座など、花立や周辺の石造物は新しい。 大切にされていることが窺える。
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| 石造物群。箱石仏が多い。 奈良市中町、大日寺の境内にて。
つづく。
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3月9日(土)18:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続々)酒蔵みてある記(城陽酒造)・青谷梅林 |
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| 枝垂れウメ。 城陽酒造にて。
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| 街かど トレジャー“ますだおかだ増田”現る!? 「お~い、こっち向いて!」パチリ!! 城陽酒造にて。
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| スタンドふじ 本店 (大阪市阿倍野区阿倍野筋 ルシアスビル B1F) 反省会場にて。
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| だし巻き280円はお値打ち。 地酒はどれでも380円。
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| ぽんかんサワーは、ぽんかんのシャーベットが入っていた。
おしまい。
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3月8日(金)18:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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(続)酒蔵みてある記(城陽酒造)・青谷梅林 |
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| 白梅。 匂いは紅梅より白梅の方が強い。
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| 菜の花とウメ。 青空が欲しかった。
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| 民家の庭に咲く枝垂れウメ。
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| 道標。 「延元役 梨間の宿跡 / 是南 玉水三十丁 / 是北 長池十五丁 / 昭和三年十月稟京都三宅安兵衛遺志建之」。 “延元役”は、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した挙兵のことで“建武の乱”とも称される。 また、“梨間”は現在の城陽市“奈島”を指しているようだ。 城陽市奈島久保野にて。
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| 本日の参加者630名。
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3月8日(金)18:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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酒蔵みてある記(城陽酒造)・青谷梅林 |
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| 2019年3月6日(水)は近鉄の「酒蔵みてある記(城陽酒造)」に現役時代の同僚2人と参加した。
<概略> スタートは近鉄京都線新田辺駅。ゴールはJR奈良線山城青谷駅。 昼食場所の青谷梅林 梅まつり会場でYa氏と出会った。 参加者は平日ということもあってやや少な目の630名。 城陽酒造では、街かど トレジャー“ますだおかだ増田”に出会った。 反省会はスタンドふじ 本店。(阿倍野ルシアスビル B1F)
昨年とまったく同じコースを歩いたので詳細については割愛する。 昨年の記録は下記。 酒蔵みてある記_城陽酒造
<コース> 10:10近鉄京都線新田辺駅10:27_一休さんの像_馬坂川(天井川)の馬坂橋を潜る_近鉄京都線を左にJR奈良線を右に沿って歩く_R307に出合いこれを東へ_防賀川(ぼうががわ)公園前_防賀川に架かる出合い橋を渡る_京阪バス東田辺バス停前・東屋_木津川に架かる山城大橋を渡る_山城大橋東詰交差点でR24を横断_JR奈良線に架かる跨線橋を渡る_青谷橋交差点を左折(北)_市辺(いちのべ)天満神社_想い月夢工房前_向河原遊園前_龍福寺前_中天満神社_山の神を祀る三の口_11:56青谷梅林 梅まつり会場・昼食12:17_道標(延元役 梨間の宿跡 / 是南 玉水三十丁 / 是北 長池十五丁)_城陽酒造・試飲_13:20JR奈良線山城青谷駅。
<メモ> ・参加者: 3名。 ・コース歩行 (新田辺駅~山城青谷駅までの所要時間と距離) 歩行距離: 約9.8km。 所要時間: 2時間55分。 ・当日歩行 (自宅~自宅までの正味歩いた時間と推測距離) 推測距離: 約14.7km。(0.67m×22,005歩=14,743m) 歩行時間: 3時間37分。 歩数: 2万2千歩。 ・反省会: スタンドふじ 本店 (大阪市阿倍野区阿倍野筋 ルシアスビル B1F)
画像はこの日歩いた近鉄京都線新田辺駅からJR奈良線山城青谷駅までのGPSログを表示。
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| 京都青谷梅林 梅まつりのパンフレット。 梅まつりは3月17日(日)まで。
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| 城陽市市辺西川原付近にて。
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| 梅の里 青谷のシンボル的な木、実梅品種の「城州白」。 城陽市名木に指定。
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| ピンクが美しい。 青空ならもっと良かったが、雨に降られるより“まし”だ。 この日は雨傘の出番はなかった。
つづく。
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3月7日(木)18:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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江包・大西の御綱祭り14 |
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| 豊作を祈る農耕神事 綱 掛 祭
場所 奈良県桜井市大字 江包 牛頭神社 大西 市杵島神社 日時 毎年二月十一日 午前九時頃より正午まで
『八雲立つ出雲八重垣妻ごめに 八重垣つくるその八重垣を』
祭りの概要
素盞嗚尊と稲田姫命の結婚の儀式である。 江包村から素盞嗚尊の雄綱、大西村から稲田姫命の雌綱を運び寄り牛頭神社の神前で夫婦の契りを結ぶ神事である。 両村人が四〇〇〇把(たば)の新藁を持ち寄り円錐形(えんすいけい)の雄綱は前々日に円輪形(えんりんけい)の雄綱は前日に作る。 各、六〇〇キロの重量と一〇〇メートルの長さをもつ大注連縄を当日神前で結合し「入船の式」を行い、神主の子孫繁栄、五穀豊穣の祝詞による祈願を行う。 その間泥田で相撲をとり豊作を祝う等の行事などがある。 この綱は五月の中頃までそのままお祭りして置く。
素盞嗚神社の由来記
要旨 大同三年戌子の年極月(西暦八〇八年十二月、約一一七〇年前)二十五日の朝より二十九日の夜にかけて大雪が降り八、九尺も積もった。 年が明けて天気が良く雪が解け大水となりその上七日大雨が降って水は益々増加し三輪山の峯より螺(てつ砲水)が出て山谷を崩す洪水となった。 三輪明神大巳貴命の元に家内安全五穀成就のお祓をする牛頭天皇の小宮があったがこの大水で流され給うた。 水防のため堤を守っていた村の老若男子が光明を照して流れくる御幣を発見し何とか救い奉ろうとしたけれども何分大水で何とも致し方がなかった。 大西村に善光院という山伏がいてこの大水を除こうと川辺でお祈りしていた。 彼が敬拝したところ江包村の辰巳の方にある阿難子大権現の宮の南にある大柳の株に打寄せ給うた。 あまりにも霊神なので誰も近付く者がなかった。 そこで庄屋天野源左衛門と古川重兵衛両人が観音寺の大光院にお願いして村内に勧請し奉つたならば永く末代まで悪病除の古跡となるのではないかと申した。 村人は早速大光院に頼み村内に守護し奉ることになった。 大光院の申すのには大同巳丑の年に流れ来給うたから丑寅の方に祭るのがよいが丑寅は表鬼門であるから裏鬼門に勧請してはどうかと申した。 村人はそれに従い未申の方に小宮を作って祭祀することになった。 このことを三輪の神主が伝え聞いて我々氏子の疫病除の霊神は取り戻さなければならないと神文書面をもって申し込んで来たけれどもこの天皇様は動くことを希望されなかった。 そこで三輪の神主は禄供御前料として十二石下されることとなった。 そのための神輿があったが平清盛兵乱のときなくなったので今はない。 両村立合の綱掛の因縁については、大西村の本光院と江包村の大光院両人で開眼されたとき大西村の庄屋山野藤右衛門が村人と相談して大きい七五三縄を奉納し村の災難除を祈願することになり、若男が女綱を作った。 そこで江包村でも男綱を作り奉納することになった。 そこでこの夫婦の契りを嬉ぶ行事となった。 二十五年後綱があまり大儀なので小綱にして奉納したところ両村に疫病が流行し医者が薬を盛っても死者が多く出た。 このとき占者がこの悪病は神罰だと申したので早速綱を元の如く打直し懸けたところその日より疫病は静まりおだやかになった。 本朝に双び無き古今の名僧空海上人がこの村を訪れ給つたとき申されるには牛頭天皇は本地垂迹(ほんじすいじゃく)では薬師如来の化身であるから●の梵字をあてるべきでこれから永く正月にこの行事を行いなさいと申された。 尚これから後代末世に至る迄相違なく相勤めたならば世上に悪病が流行しても両村には悪鬼神が来ることがない。 疑いの心を起こさずこの神事祭礼は相勤めるべきである。 もし背く者が末世にあれば直ちに七福が滅亡し七難がやってくるであろう。 牛頭天皇の御詑宣(ごたくせん)は恐るべし、秘すべしと書きおかれた。 (この文は田村金蔵翁の遺書中より田村久通氏が写書いたものである。)
神事の意味
綱掛神事の文献はない。 素盞嗚神社の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話は川の氾濫を大蛇に喩え、退治したことはそれを防ぎ守ったことを意味するという民俗学者の説がある。 前記の由来記は非常に関係深いと言える。 江包とは河に包まれた部落という意味の名称で昔は水災に苦しめられた土地であって、それ故にこの行事が生まれたのであろう。 仲人役は世襲の喜田家であり、両村の間には古くから姻戚関係が全く無いこと等、其の素朴な点から考えて古い時代から伝えられた農民の誇るべき芸術とも言える。 素盞嗚尊と稲田姫命は「八雲立つ・・・」の古歌にある如く夫婦仲最も睦まじい神であった。 この祭は豊作を祈ると共に良き子宝に恵まれることを祈願する儀式でもある。 更にそのすばらしき相手恋人があらはれることを御願してもよいことになる。 霊験あらたかなのか最近綱の下でその意味の祈祷を願い出る方々が多くなった。
江包 素盞嗚神社
..................... おしまい。
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3月7日(木)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 社寺仏閣 | 管理
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