もう一つの三室山と雁多尾畑40 |
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| 地蔵堂には鍵が掛かっておらず、観音扉を開けると、自然石っぽい石仏。
涎掛けの下に、僅かに両手を合せているように見えなくもない。
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| この民家の板塀は伝統的な焼き杉板を使用。
そして石を積んだ擁壁(石垣)がここでも見られた。
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| 近鉄大阪線の踏切。踏切は渡らずに右へ。
前方は柏原市役所とリビエールホールとなっている。
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| 安堂駅周辺案内図。 この地図は上が西。
安堂駅の西に「大和川付け替え記念公園」が記載されている。 現在の大和川はここから西方向へ向きを変える工事が行われた。 地図に見える長瀬川が旧大和川とみられる。
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| 近鉄大阪線安堂駅に13時14分に到着。
暑い時季でもあり、この程度のウォーキングが丁度よい。 おしまい。
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8月8日(火)20:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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もう一つの三室山と雁多尾畑39 |
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| 住宅地の中を歩く。
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| 分岐で左方向に提灯と寺標「曹洞宗 大日禅寺」が見えた。
左分岐を見送り直進。
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| 素敵な小路。
この一角だけにグリーンベルトと石段が設けられていた。
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| 画像中央のお寺は正休寺。
右の建物は「安堂葡萄生産組合集荷場」。
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| 集荷場の横に地蔵堂らしきが見えたので立ち寄る。
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8月8日(火)20:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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もう一つの三室山と雁多尾畑38 |
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| 安堂池から先、急坂を下る。
この辺りからの眺めが良い。
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| 眼下に墓地が現れる。 安堂・太平寺共同墓地。
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| 「←木沢長政の墓」の案内板と説明板が立つ。
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| 伝 木沢長政の墓
【要約】 戦国時代の武将、木沢長政の墓と伝えられる五輪塔。天文11年(1542)と刻まれている。木沢長政は河内の守護代として権勢を誇ったが、天文11年、落合川の合戦(太平寺の戦い)で遊佐長教らに敗れ、この地で討ち死にした。
【説明文】
この五輪塔は、もとは太平寺の北のはずれ「キソドノ墓」「喜増土ノ墓」と呼ばれる地に建っていたもので、戦国時代の武将・木沢左京亮長政の墓と伝えられています。地輪には四面に梵字、うち一面に「天文十一年 法界衆生 宗澤禅定門 平等利益 三月十七日」と陰刻され、空・風・火・水輪は後補したものですが、市内では珍しい大形の五輪塔です。 長政は生駒山系に連なる飯森城(大東市~四條畷市、標高三一六メートル)を築城して拠点とし、さらに田原城・津田城・信貴山城・二上山城などの支城に拠り、河内国半国の守護代として山城・北河内・大和に権勢をふるいました。天文二年(一五四二)三月十七日、高尾城(羽曳野市)の遊佐長教らと大和川・石川の合流点で「落合川の合戦(太平寺の戦い)」となり、太平寺「上の畠」に布陣した長政はこの地で敗死、信貴山城も焼き払われました。
平成二十四(二〇一二)年十二月 柏原市教育委員会
木沢長政 - Wikipedia
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| 「←平尾山古墳群 雁多尾畑光徳寺 4km」。
この道標には「雁多尾畑」を“かりんどおばた”ではなく“かりんどばた”と表記している。
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8月8日(火)20:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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もう一つの三室山と雁多尾畑37 |
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| ぎっしりと積まれた石垣。
今日は至る所でこれを見た。
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| 前方に車道の陸橋が現れ、この下を潜る。
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| こちらのぶどう畑は、最初、耕作を放棄されたのかと思った。
ところが、そうではないようだ。 自然農法と呼ばれるものかな、雑草を刈らずに栽培している。 土をむき出しにせず、雑草と一緒に植える農法らしい。
自然農法
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| 道路の左側に池が現れる。
池の名前は「安堂池」。
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| 池を通り越したところで分岐となり、道標が立っていた。
「← JR高井田駅 1200m → 近鉄安堂駅 500m ↓ 横尾 2000m」。 ここは右折。
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8月8日(火)20:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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