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もう一つの三室山と雁多尾畑38

安堂池から先、急坂を下る。

この辺りからの眺めが良い。



眼下に墓地が現れる。
安堂・太平寺共同墓地。



「←木沢長政の墓」の案内板と説明板が立つ。


伝 木沢長政の墓

【要約】
戦国時代の武将、木沢長政の墓と伝えられる五輪塔。天文11年(1542)と刻まれている。木沢長政は河内の守護代として権勢を誇ったが、天文11年、落合川の合戦(太平寺の戦い)で遊佐長教らに敗れ、この地で討ち死にした。

【説明文】

 この五輪塔は、もとは太平寺の北のはずれ「キソドノ墓」「喜増土ノ墓」と呼ばれる地に建っていたもので、戦国時代の武将・木沢左京亮長政の墓と伝えられています。地輪には四面に梵字、うち一面に「天文十一年 法界衆生 宗澤禅定門 平等利益 三月十七日」と陰刻され、空・風・火・水輪は後補したものですが、市内では珍しい大形の五輪塔です。
 長政は生駒山系に連なる飯森城(大東市~四條畷市、標高三一六メートル)を築城して拠点とし、さらに田原城・津田城・信貴山城・二上山城などの支城に拠り、河内国半国の守護代として山城・北河内・大和に権勢をふるいました。天文二年(一五四二)三月十七日、高尾城(羽曳野市)の遊佐長教らと大和川・石川の合流点で「落合川の合戦(太平寺の戦い)」となり、太平寺「上の畠」に布陣した長政はこの地で敗死、信貴山城も焼き払われました。

 平成二十四(二〇一二)年十二月
                柏原市教育委員会

木沢長政 - Wikipedia



「←平尾山古墳群 雁多尾畑光徳寺 4km」。

この道標には「雁多尾畑」を“かりんどおばた”ではなく“かりんどばた”と表記している。



8月8日(火)20:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

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