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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺8

ぶどうに関してはまったくの素人だが、画像はマスカットと呼ばれる品種かもしれない。
ワイン、レーズン、生食用。



コンコードと呼ばれる品種かも。
生食のほか、果汁飲料、醸造用。



柏原のぶどう産業について

旧堅下村は、現在の柏原市山ノ井、平野、大県、太平寺、安堂、高井田にあたり、ここで栽培されたぶどうは、今でも「堅下ぶどう」と呼ばれています。
明治11(1878)年に、堅下村平野の中野喜平氏が甲州ぶどうの苗木の育成に成功しました。
当初、ぶどうは宅地内で、日陰樹を兼ねて栽培されていたようですが、綿の生産衰退に替わって田畑で栽培されるようになりました。
明治時代はぶどう栽培の模索期にあたり、病害虫の予防や施肥、剪定、適応品種の選定などが、個人の努力によって手探りで進められた時代でした。
明治末から昭和初期にかけて、ぶどうの栽培は定着し、新品種の栽培も試みられるなど、拡大を続けました。
昭和10(1935)年の、大阪府におけるぶどうの栽培面積は866haで全国最大でしたが、その30%近くを堅下村が占めていました。
大正6(1917)年には温室による加温栽培も始まり、それにより6月頃には出荷が可能になりました。
しかし太平洋戦争が始まると、キラキラと光る温室は空襲目標になるという理由で、昭和20(1945)年3月までに全て撤去されました。
太平洋戦争中、他の果実が生産統制を受ける中、ぶどうの栽培面積はあまり変化しませんでした。
その理由は、ワイン醸造中にできる酒石酸が電波兵器に必要であったため、生産が奨励されたためです。
戦後、ぶどうの生産は徐々に復興していきましたが、昭和25(1950)年のジェーン台風、昭和36(1961)年の第二室戸台風により大きな被害を受けたことや、高度経済成長による宅地開発の急増により、平地部のぶどう園は次々と宅地化され、栽培面積は減少していきました。
現在の柏原市のぶどう栽培面積は約150haで、昭和10(1935)年の510haに比べると、約70%減少しています。
しかし収穫量の減少幅はそれほど大きくなく、2,000t前後が続いています。
効率的な栽培により、単位面積当たりの収穫量が増加していることがうかがえます。
府内の市町村で、柏原市は羽曳野市に次いで2位の栽培面積・収穫量を誇っています。
また特徴として、栽培品種が豊富なこと、マスカット・ベリーAの収穫量は府内で最高であること、観光農園が盛んなこと、ワインや菓子類への加工が盛んなことがあげられます。



一面、ぶどう畑が広がっている。
栽培地なので、無断で入ってはいけないかも、と思ったが、足元に明らかに観光客用と見られる照明器具が設けられていたので入ってみた。



ぶどうの木のトンネルを潜る。

つづく。



12月4日(月)05:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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