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上町台地から天王寺七坂めぐり22

横断歩道を渡ると正面にこの看板。
悪縁つ寺 鎌八幡
このキャッチコピー、一度聞いたら忘れないくらいインパクトがある。



山門前に立つ石柱。史蹟 契沖舊庵「圓珠庵」竝墓。
(しせき けいちゅうきゅうあん「えんじゅあん」ならびにはか)

コトバンク によると、 江戸時代の国学研究の基礎をつくった契沖(1640~1701年)の足跡を顕彰する重要な場所として、1922年(大正11)に国の史跡に指定された。現在、上町(うえまち)台地の真田山の西にある円珠庵に引き継がれており、円珠庵は真言宗御室派に属し、契沖が初めて業を受けた妙法寺の末寺。旧庵は本堂の西に建てられた桁行5間、梁行3間半の茅葺きの建物で、戦前までは江戸時代の珍しい旧態を残していたが、空襲で全焼した。契沖は尼崎に生まれ、11歳のとき今里の妙法寺で出家、高野山で修行し各地を流浪した。代表的著作である『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』は水戸光圀(みとみつくに)の依頼で、師の下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって万葉集を注釈したもの。古典研究の底に流れる復古思想は、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)らに引き継がれ和学・国学の主流をなした。契沖の墓は本堂裏の墓地内にあり、親交のあった下河辺長流、医師華岡鹿城の墓もある。

円珠庵 - Wikipedia によると、 鎌八幡は、圓珠庵の境内にあって、元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。

山門から境内に入ろうとしたら、「境内全域 撮影禁止」と表示されており、この画像一枚を撮影して早々に立ち去った



「三韓坂」の表示。

※⑥三韓坂(さんかんざか)・・・近くに平安時代に築かれた外賓接待のための館「鴻臚館(こうろかん)」があったとの説がある(鴻臚館の位置については諸説ある)。鴻臚館は三韓館、難波館ともいわれたことから三韓坂の名が伝わった。



左に高津中学校の校舎を見て歩く。住所表示は天王寺区空清町7。
やがて右手に公園が現れる。「空清町公園」。(からきよちょう)



上本町4の交差点を横断して暫く歩く。
谷町7の交差点の手前、道路の真ん中に、まるで川の中州のような舟形をしたところが現れる。
その中に鳥居とご神木のような樹木が見えた。
ここは「楠木大神」が祀られており、ネット検索すると幾つかヒットする。

危険!?これぞ道路のど真ん中に立つ御神木! 谷町7丁目「楠木大神

車道の真ん中になぜ巨木? 大阪中心部のミステリー

要約すると、この場所は元は本照寺というお寺の境内にあたる。大正10年、街路整備のために本照寺境内を市が買収。楠を切ろうとすると工事人に怪我・病気が続出。白蛇を見たという人まで現れ、工事人が集まらなかった。やむなく道の真ん中に残すことに。戦後大阪に来た進駐軍もこの木を残し、地元の人が祠や注連縄を張り、通りの名前も「楠木通り」と呼ばれるようになった。



4月6日(水)20:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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