山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 

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鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺18

山井寺の境内からの眺め。
平地より若干標高が高いので、付近を見渡すことが出来る。



モクレン(木蓮)の実だろう。
秋に赤い実をつける。



瑠璃光禅寺の境内で休憩中。


来た道を途中まで戻り、北方向に伸びる小道を歩く。
前方に墓地(来迎寺墓地)が見える。



墓地の隅っこに置かれていた。
「奉納西國三拾三所 順禮」と刻まれているようだ。

つづく。



12月6日(水)05:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺17

瑠璃光禅寺に隣接する若倭姫(わかやまとひめ)神社に立ち寄る。
画像は拝殿。
光不足で上手く撮影出来ていない。



式内 若倭姫神社

御祭神 若倭姫命
祭日  夏祭 七月三一日
    秋祭 十月十五日
由緒
当社の創立年次は詳らかではない。
延喜式内の古社にして、大日本史及び式内細記に清和天皇貞観元年八月丙申従五位下を授け、醍醐天皇延喜の制祈年祭並びに加鍬一口とあり、又河内志神社要録には今春日八幡(春日白山)と称し此地の産土神とす、とある。



山井寺に立ち寄ってみる。
参道まで戻らなくても、横つなぎに道が続いていた。



地蔵菩薩立像。


お地蔵様の横にも石仏が祀られていた。
阿弥陀さん?

つづく。



12月6日(水)05:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺16

「石造 如来形座像
 石造 菩薩形立像
         瑠璃光寺

この小堂には二体の石仏が安置されています。
いずれも古墳時代後期の凝灰岩製家形石棺の奥蓋部を転用したもので、こうした石仏は市内の高井田、青谷地区でもみることができます。
右側の如来形座像の背面には屋根形、縄掛突起などの石棺の旧状がよく残されています。
高い肉髻(にっけい)、長く豊かな耳、平行に走る納衣の線など、量感にあふれた鎌倉時代初期の作風が窺われます。
左側の像は頭部を欠損していますが、衣の襞の線、天衣のような線が見えること、両手のあらわす容姿などから菩薩立像と思われます。
この二体の石仏は、かつて野道の傍に半ば埋もれた状態で置かれていたものか、農具や刃物などの研ぎ痕が処々に見られます。
         一九八九年三月  柏原市教育委員会」



説明書きにある如来形座像。
鎌倉時代初期の作風。



頭部が欠損。
説明書きによると菩薩立像とみられる。



二尊石仏。
左側が地蔵菩薩、右側が阿弥陀如来だろう。



境内に「高田川音吉之碑」と刻まれた石碑が立つ。
下記サイトによると、地元出身の力士とのこと。
高田川部屋ブログ

「年寄・高田川の名跡は大阪相撲の名跡であり、比較的新しい頭取名で明治になって創設されたものです。
(頭取とは現在の年寄の意)
初代は高田川 音吉。
現在の大阪府柏原市山ノ井町出身の前頭上段力士・高田川です。
現役時代の四股名をそのまま頭取名としたものです。」

つづく。



12月6日(水)05:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺15

次のチェックポイントは瑠璃光禅寺で直進だが、右手に山井寺の寺標が見えた。


後で山井寺に立ち寄ってみた。
地名の“山ノ井町”の元となっているお寺だろう。



石段を登る。


瑠璃光禅寺の寺標。


歩いて来た道を振り返って撮影。

つづく。



12月5日(火)07:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺14

最近、よく見かけるムラサキルエリア。


柏原市の北部となる山ノ井町にやって来た。
この地区を過ぎると行政区は八尾市。



ここも狭い道を歩く。
この先の三叉路でカラー舗装されている。
カラー舗装の部分は私道ではなく公道。



熟した柿が落ちていたので、靴を汚さないようにして歩いた。


分岐で右折(東)。
山の方へ向かう。

つづく。



12月5日(火)07:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺13

若倭彦(わかやまとひこ)神社に到着。
所在地:柏原市平野2丁目15−22



神社にしては珍しく鳥居が見当たらない。
正面の注連縄が掛けられている柱は鳥居には見えない。
この後に訪問する、ここから北東に位置する「若倭姫(わかやまとひめ)神社」と一対になる神社。



若倭彦神社

平野地区の産土神で建筒草命ならびに若倭彦命を祀る式内社である。
六世紀の頃この地で大いに繁栄した若倭部の連がその祖神を奉斎したものであろう。
姫神は若倭姫神社(山ノ井地区)に祭祀されている。
この人々は豪族の凡河内国造や尾張ノ連とも縁が深く、農耕に励み武事に長じていたと伝えらている。
古い記録には「貞観元年(八五九)従五位下ヲ授ク」「延喜ノ制ニ小社ニ列セラレ祈年祭並ニ鍬一ロヲ奉ル」とある。
別名を「あかざ八幡」という。
なお付近に平野山古墳群がある。
   昭和六0年十月 平野地区町会



若倭彦神社を後にする。

民家の庭先に植栽されていた、園芸品種のモモシキブ。
又はピンクムラサキシキブとも呼ばれている。
モモシキブ(桃式部)



食べ頃のみかんが生っている。
付近はミニ開発された新興住宅もチラホラ建つが、長閑な風景も残っていた。

つづく。



12月5日(火)07:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺12

民家の塀に歴史好きな方だろう、このような案内板が取り付けてあった。

「風吹けば 沖つ白波 龍田山 夜半にや 君がひとり 越ゆらむ」(伊勢物語 23段)
「左右 業平道(河内山ノ辺道)」
ここは 大里ノ郷 大字平野字大南口

それにしても“河内山ノ辺道”は初耳。



この辺りを歩くのは初めてだが、何故か懐かしさを感じる町並み。


関西電力のロゴマークと、数字の「71-02」は契約者番号?
クルマのナンバープレートに似ている―笑。



柏原市のマンホールの蓋。
下記サイトによると、
柏原市(かしわらし)のマンホール

“市章の周りに特産のブドウが描かれている。「柏原市」「汚水」の表記。汚水管マンホール蓋”



付近は路地並みに道幅が狭い。
元は田んぼの畦道?

つづく。



12月5日(火)06:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺11

鐸比古鐸比賣神社御縁起 【一部省略】

御祭神 鐸比古命
    鐸比賣命

由緒  
鐸比古命は垂仁天皇の御子にして記紀には沼帯別命或いは鐸石別命とある。
成務天皇二一年の創建と傳えられ延喜式内の古社にして従三位の神階を給う。
往古は鐸比古命は當社奥之院高尾山頂に祭祀され、高尾大明神とも称し、また鐸比売命は高尾山麓姫山に祭祀され比売御前と称した、雨乞いの勅願所でもあった。
中世現在地に祭祀されるも兵火に遭い現本殿は元禄時代の再建である。
御祭神は和気清麿公の御遠祖にして岡山和気神社に御分霊が奉斎されているが、全国的に當御祭神を主神として祭祀する神社は当社と和気神社のみである。
明治五年旧大縣郡の郷社に列し一時平野若倭彦神社、山ノ井若倭姫神社を合祀した大県法善寺の氏神である。



境内で昼食を済ませる。


「手水の つかいかた」。


鐸比古鐸比賣神社を後にし、引き続き北へ向かって歩く。
このような狭い道は、クルマが通行しないので、安心して歩くことが出来るが、時々、行止りの場合がある。



畑に植えられていたケイトウ。(鶏頭)
あまりにも鮮やかな赤色なので、非常に目立っていた。

つづく。



12月5日(火)06:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

土曜会ハイキング予定修正版

2023年12月9日(土)に計画されていたハイキングは都合により中止するとのことです。


12月4日(月)19:01 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺10

車道を北へ歩く。
この先、左下へ降りる道があり、これを歩く。



左に大阪平野を眺めながら歩く。


やがて、鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社の参道に出合う。
この後、石段を登って境内で昼食となる。



石神社とよく似た造りとなっており、長くて急な石段が見える。


鳥居を潜り、石段を登ってお参りした。

つづく。



12月4日(月)05:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺9

「ぶどうの小道」と記された道標。
ごく最近、つくられたようだ。
これを見て観光用の歩道であることを確信した。



大きな葡萄が、たわわに実っていた。


道路に出るところに道標が立ってあり、ここまで歩いて来た道が「ぶどう棚の小道」となっていた。


登って来た階段を振り返って撮影。
かなりの急斜面。



ここから大阪平野の眺望が得られる。
位置の確認をするのに、一番の目印になるのは、やはり、あべのハルカスだろう。

つづく。



12月4日(月)05:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺8

ぶどうに関してはまったくの素人だが、画像はマスカットと呼ばれる品種かもしれない。
ワイン、レーズン、生食用。



コンコードと呼ばれる品種かも。
生食のほか、果汁飲料、醸造用。



柏原のぶどう産業について

旧堅下村は、現在の柏原市山ノ井、平野、大県、太平寺、安堂、高井田にあたり、ここで栽培されたぶどうは、今でも「堅下ぶどう」と呼ばれています。
明治11(1878)年に、堅下村平野の中野喜平氏が甲州ぶどうの苗木の育成に成功しました。
当初、ぶどうは宅地内で、日陰樹を兼ねて栽培されていたようですが、綿の生産衰退に替わって田畑で栽培されるようになりました。
明治時代はぶどう栽培の模索期にあたり、病害虫の予防や施肥、剪定、適応品種の選定などが、個人の努力によって手探りで進められた時代でした。
明治末から昭和初期にかけて、ぶどうの栽培は定着し、新品種の栽培も試みられるなど、拡大を続けました。
昭和10(1935)年の、大阪府におけるぶどうの栽培面積は866haで全国最大でしたが、その30%近くを堅下村が占めていました。
大正6(1917)年には温室による加温栽培も始まり、それにより6月頃には出荷が可能になりました。
しかし太平洋戦争が始まると、キラキラと光る温室は空襲目標になるという理由で、昭和20(1945)年3月までに全て撤去されました。
太平洋戦争中、他の果実が生産統制を受ける中、ぶどうの栽培面積はあまり変化しませんでした。
その理由は、ワイン醸造中にできる酒石酸が電波兵器に必要であったため、生産が奨励されたためです。
戦後、ぶどうの生産は徐々に復興していきましたが、昭和25(1950)年のジェーン台風、昭和36(1961)年の第二室戸台風により大きな被害を受けたことや、高度経済成長による宅地開発の急増により、平地部のぶどう園は次々と宅地化され、栽培面積は減少していきました。
現在の柏原市のぶどう栽培面積は約150haで、昭和10(1935)年の510haに比べると、約70%減少しています。
しかし収穫量の減少幅はそれほど大きくなく、2,000t前後が続いています。
効率的な栽培により、単位面積当たりの収穫量が増加していることがうかがえます。
府内の市町村で、柏原市は羽曳野市に次いで2位の栽培面積・収穫量を誇っています。
また特徴として、栽培品種が豊富なこと、マスカット・ベリーAの収穫量は府内で最高であること、観光農園が盛んなこと、ワインや菓子類への加工が盛んなことがあげられます。



一面、ぶどう畑が広がっている。
栽培地なので、無断で入ってはいけないかも、と思ったが、足元に明らかに観光客用と見られる照明器具が設けられていたので入ってみた。



ぶどうの木のトンネルを潜る。

つづく。



12月4日(月)05:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺7

柏原ワインの直売所が案内板に載っていた。
地図によると、このまま西へ歩き、R170に出合って右折(北)、更に右折(東)すると直売所の看板が見える。



ここが直売所。
多くの人が店の中に入り、何人かはワインや物品を買ったみたい。
Tリーダーが赤ワインを買い、昼食時に頂いた。
かなり甘口だったと思う。



木樽が並べられていた。
何と5171リットル。



側板と呼ばれる部分。
それにしても大きい。
「ワイン樽のひみつ」

木樽は側板(staves)と蓋になる鏡板(head boards)板を締めているフープ(hoop)の主に3つの部分で構成



直売所を後にして、ぶどうが栽培されている山の裾野方面へ向かう。
右はぶどう畑。

つづく。



12月4日(月)05:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺6

石神社から北へ向かう道を歩く。
道路幅が極端に狭くなっており「この先、普通車の通り抜け不可」と貼紙がしてある。



軽自動車ならギリギリ通れそう。


辻を左折(西)すると、右手(北)に「柏原ワイン」の看板と作業場が見えた。


「カタシモワインフード 貯蔵庫」 登録有形文化財

「ぶどう」は柏原市の特産物の1つです。
明治時代以降、全国規模での生産量を誇り、大正の終り頃にはワインの醸造も盛んになりました。
この建物はぶどうの貯蔵庫として大正時代に建てられたもので、1階は鉄筋コンクリート造、2階は木造です。
1階の床と壁はコンクリートの内側に炭を詰めた構造となっており、気温や湿度の影響を少なくすることができます。
ぶどうの生産が大きく発展した時代に、出荷時期をずらすことでその価値を高めるという生産者の知恵が生まれた工夫です。
ワイン製造に成功し各地に出荷されるようになってからは、ワイン貯蔵庫として使用されています。
ぶどう生産という地場産業の近代化遺産として価値があり、この地域の景観を演出していることから、平成17年に国の登録有形文化財になりました。
   平成17年3月 柏原市教育委員会

尚、この貯蔵庫は道路に面しておらず、どの建物がそれなのか、分からなかった。
後で調べると、会社の敷地の中にあるようで、一般公開はされていない。
カタシモワインフード貯蔵庫



「かたしもワイン祭り 2023」のパンフレット。
2023年11月19日(日)に開催。(このイベントに私は不参加)

つづく。



12月4日(月)05:36 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

鐸比古鐸比賣神社_瑠璃光禅寺_垣内掩体壕跡_善光寺5

拝殿、本殿へと続く長く急な石段。


「石神社」
「御祭神」 【詳細省略】
石姫命 石長姫命 熊野権現
「由緒」 【詳細省略】
石姫命、石長姫命ともに当地に祀る由縁もなく、熊野権現は江戸時代に高野街道沿いで熊野権現社とも称され祀っていたもので特定の祭神ではなく、磐座信仰に由来する自然信仰から産土神へと、地域に根差した神社とも考えられています。

上記、説明書きの由緒によると、この神社は神話に登場する特定の神ではなく、古くは自然信仰(磐座信仰)に由来する神社なのだろう。



智識寺の東塔に使用されていた塔心礎。
【コラム】聖徳太子と柏原 (6)聖徳太子と智識寺



智識寺東塔刹柱礎石 (大阪府指定文化財)
       石神社
智識寺は奈良・平安時代河内を代表する大寺院で、東大寺大仏造顕の機縁となった大仏を本尊とし、聖武・孝謙帝、藤原頼道などの参詣、法華寺への胴の運上といった動きが知られています。
伽藍は東・西二塔をもつ薬師寺式の配置で、この刹柱礎石は、東塔跡と推定される太平寺二丁目一八-七・山本義一氏宅地東南角の土蔵付近から出土したものです。
花崗岩製で、この塔心礎の柱穴の直径は一二二センチあり、この上に建てられていた塔は高さ四八、八メートルの五重塔であったと推定されます。
智識寺の大仏は高さ一八メートルと伝えられ、この礎石から推定される塔も、そうした巨大な仏像を本尊とする大寺院にふさわしい大きさです。
   大阪府教育委員会 柏原市教育委員会



石神社を後にする。
太平寺地区総合案内板が掲げられていた。

つづく。



12月3日(日)06:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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