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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


生駒山麓公園_室池園地_四條畷37

 元禄二(一六八九)年に当地を旅行した貝原益軒は、「飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す」と記し、龍尾寺住職慶道は寛文三(一六六三)年八月二十二日付記録で「観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた」と書きしるす。御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜・紅葉の名所としても著名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に五百㍍程山系へと踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにより、江戸初期に現在地へ転じたもの。
 京都相楽郡加茂町の古刹、真言宗海住山寺の大般若波羅蜜多経六〇〇巻のうち、奥書を記す経巻の大半は、当地龍尾寺の経典を、寛治五・六・七年(一〇九〇年代)に筆写したものである。「河内国讃良郡滝尾供養了。滝尾山持経。滝尾寺の本。書写願主滝尾寺範誉」等と記してあることから見ると、平安末期には「滝尾寺」を称し、大般若経六〇〇巻を持つ寺院として、寺運隆々たるものがあったものであろう。
 奈良期の寺院は人里の中に建てられるが、平安期ともなれば、修行道場として山岳寺院へ移行する。このことから、平安初期に遡る古寺院であることは確である。滝尾寺の滝が、本字の瀧→龍となって、龍尾寺を称するに至ったものであろう。瀧尾寺から龍尾寺へ転じた時に、龍王感応伝説が生まれる。一二〇〇年前の天平の昔、旱魃あって里人大いに苦しむ。行基菩薩これを憐れんで山間に立ち、法華経を唱すれば大雨沛然たり。龍王は身を裂いて里民の窮状を救ったものであろう。身は三分されて天空より落下した。住民深く感謝し、頭の所に龍光寺、胴体の所に龍間寺、尾の所に龍尾寺を建てて、その霊を弔った。前二者は大東市龍間に、後者が当市の龍尾寺となって、法灯を現在に伝える。京都の古刹・真言宗海住山寺と密接な関係にあることより見て、高野山金剛峯寺に倣い、人煙遠く距った観音山に真言宗として建立され、滝尾寺を称し、鎌倉時代に起雲山龍尾寺へ名称は定着、江戸初期に現在地へ転じた時、禅宗の曹洞宗へ改まった。
       (四条畷市史第四巻より抜粋)


尚、上記の龍王感応伝説について、これと同じような縁起が、千葉県匝瑳市にある真言宗智山派の寺院、龍尾寺(りゅうびじ)にも伝わる。

龍尾寺 - Wikipedia



一ヶ所に集められ丁重に祀られている石仏。


境内に祀られている石仏。


龍尾寺、本堂。


ここにも石仏が祀られていた。


7月7日(木)20:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

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