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泉北丘陵を歩く3(光明皇后伝説の地)

【2017_10_25~2018_02_14の記録】

2018年2月4日(日)は、こばこの部に参加した。
タイトルは「泉北丘陵を歩くⅢ (光明皇后伝説の地を訪ねて)」。

<概略>
過去「泉北丘陵を歩く」シリーズのⅠ、Ⅱはササユリの会として実施されていた。
・2017_03_23「泉北丘陵を歩くⅠ (荒山公園から小谷城址へ)」泉ヶ丘駅→泉ヶ丘駅。
・2017_05_25「泉北丘陵を歩くⅡ (役行者霊跡・松尾寺を訪ねて)」和泉中央駅→和泉中央駅。
泉北高速鉄道路線の周辺は、今までまったく歩いたことがなかったので、このシリーズには漏れなく参加している。
今回は光明皇后伝説の地を訪れるというもので、今回もスタートとゴールは同じで光明池駅。

奈良時代の聖武天皇の妃、光明皇后は和泉市で生まれ育ったとの説があり、この伝説をもとに光明皇后生誕の足跡を辿った。
光明池駅をスタート。光明池守護神社を起点に時計回りに光明池を半周。
光明池大橋を渡って春日神社、西福寺に立ち寄り、昼食予定地の和泉国分寺に到着。
ところが、この日は星祭が行われており、拝観は叶わなかった。

旧国分峠に出て和泉市総合運動センター(旧府立横山高校跡地)へ足を伸ばして昼食。
食後は西福寺付近の黒石町バス停前まで、往路と同じ道を歩き、納花町(のうけちょう)から、昔の街道の面影を残す父鬼(ちちおに)街道を歩いて光明池に戻った。
光明池では真新しい「光明皇后と女鹿の石像」を訪れ、スタートの光明池駅にゴール。

<コース>
泉北高速鉄道光明池駅9:46_甲斐田川(かいだがわ)と車道に架かる陸橋ぴらかんさ橋を渡る_甲斐田川に架かる橋を渡る_光明池改修之碑_雨乞蛙(モニュメント)_光明池守護神社_光明池に架かる光明池大橋を渡る_こうみょういけ茶輪_光明台北小学前の三叉路を右折→道迷い 左折_光明台1丁目西バス停前_三林(みばやし)町会館前_勝江池_和泉国池田郷 春日神社・三林古墳群_久住織布前_黒石町バス停前_西福寺_槙尾川に架かる豊橋(とよはし)を渡る_国分寺・説明板(和泉国 国分寺 縁起)_常夜灯_道迷い(車道から旧道に戻る)_光明皇后誕生所(碑)_役行者像・常夜灯二基・道標(梵字 左 大峯道 右 槙尾山道)_旧国分峠_皇大宮・説明板(皇大宮由緒略記)_道標(左 大三祢山 右 ま紀のを / 嘉永六年九月 / 信力若松組 岸和田講中 施主 先達 ××)_老人ホーム ひかりの園前_横山高校前バス停前_12:36和泉市総合スポーツセンター(関西トランスウェイスポーツスタジアム・旧府立横山高校跡地)・昼食13:15_<黒石町バス停前まで往路とほぼ同じ道を歩く>_高架道路の下を潜る_槙尾川に架かる八王子橋を渡る_クリーニング店跡の角を右折(北)_むかしの街道の面影を残す父鬼(ちちおに)街道_和泉市立南池田小学校前_地蔵堂(弘法大師帝釈天子安菩薩 普賢菩薩)・経墳_和泉中継ポンプ場前_槙尾川に架かる川中橋を渡る_祠(宝篋印塔)_光明霊園前_和光霊苑_光明皇后と鹿の石像・説明板(光明皇后御生誕伝承之地 光明池名称の由来)_光明池朝鮮人労働者慰霊碑_<甲斐田川に架かる橋から往路と同じ道を歩く>_15:24光明池駅

<その他>
・参加人員総勢19名。
・実歩行距離約29km。(自宅~最寄り駅往復約2.7km、南海難波駅~天王寺駅前等を含む一日の距離)
・歩行距離が長いのは、この日の夜、現役時代の職場仲間と飲み会が天王寺駅近くであり、時間調整も兼ねて難波駅から天王寺駅前まで歩いた。
・歩数約4万2千歩。
・光明池の堤に建立された光明皇后と女鹿の石像と説明文 光明皇后御生誕伝承之地 光明池名称の由来について
光明池は、和泉市国分町の浄福寺裏の光明の滝を源にしていることから、この付近に古くから伝わる、光明皇后生誕伝説に由来して、「光明池」と命名されています。昔々、奈良に都のあった頃の話です。国分町の槇尾川のほとりの滝山で、智海上人というお坊さんが仏教の修行をしていたところ、一頭の女鹿がやって来て、上人のお小水をなめて懐妊し、やがて可愛い女の子を産みました。上人は女の子を近所の農家に預けて育ててもらいました。少女が七歳になった年の夏のことです。家族総出で田植をしていました。少女も連れられて来て、田んぼの端で遊んでいました。ちょうどその時、都の大臣藤原不比等が、天皇の使いとして槇尾寺にお詣りした帰りに、田んぼのあたりから、何やら不思議な瑞気が立ち上がり、光り輝いている美しい少女をみつけました。大臣は少女をもらい受けて都へ連れ帰り養女として育てました。光明子と名付けられた少女は、天皇のそば近くに仕えていましたが、やがて天皇の寵愛を受けるようになり、皇后となりました。聖武天皇の后の光明皇后です。皇后は、仏教に対する信心がことのほか厚く、諸国にたくさんのお寺を建てましたが、自分の生まれ育った和泉の地にも一寺を建てました。それが和泉国分寺です。智海上人の修行した滝山には、現在は浄福寺というお寺があり、瀧の寺とも呼ばれています。境内には、上人が修行したと伝えられる石の洞窟や、鹿の足跡が刻まれた石などがあります。大臣が少女を見つけた場所には、「照田、光田」という地名が残り、少女が大臣に連れられて都に上るとき、生みの親である女鹿が、別れを惜しんで見送った場所を「女鹿坂(めまさか)」とよんでいます。また、少女の足は、鹿の足の形をしていたので、それを隠すために袋を作って履かせたのが、「足袋」のはじまりであると伝えられています。光明池副堤防の改修記念に際して、これからも光明池が多くの人々に愛されることを願い、この石像を建立します。光明池土地改良区

画像は光明寺駅から時計回りに周回したルートのGPSログを表示。



光明殿。
(和泉国池田郷) 春日神社にて。



阿弥陀如来坐像。
「寛政七年、施主 大念佛同行×」の刻銘。
和泉市黒石町 西福寺にて。



光明皇后誕生所(碑)。
道標の上部には盃状穴が見られる。(画像左下)
和泉市国分町 旧国分峠付近。



旧国分峠に立つ道標。
「左 大三祢山 右 ま紀のを / 嘉永六年九月 / 信力若松組 岸和田講中 施主 先達 ××」。
光明皇后誕生所(碑)と同じく道標の上部には盃状穴が見られた。(画像左下)



5月13日(日)18:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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