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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2018年2月21日を表示

青谷道_摩耶山_穂高湖_杣谷36

旧摩耶の大杉分岐。
H氏は初めてとのことなので立ち寄ることにした。
約50m。



訪れる人が多いのだろう。
踏み跡は明確。



旧摩耶の大杉

市街地から眺めると摩耶山の中腹に一際目立つ大木があるのに気付きます。
旧摩耶天上寺の塔頭のひとつであった蓮華院の西側に位置し、幹周り8mもある六甲山随一の大木であったと思われます。
昭和40年に発刊された「神戸の名木(神戸市公園緑化協会編 兵庫新聞社発行)」によると、約200年前に摩耶山一帯で起きた大水害で奇跡的に生き残ったため、その生命力に驚いた人々は、神霊が宿っているに違いないと「大杉大明神」としてあがめたと記載されています。
また同書によると樹令は千年とも記されており、その威風堂々とした姿に圧倒された様子が伺われます。
この「摩耶の大杉」は残念ながら、昭和51年の|日摩耶天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え枯死してしまいました。
幾星霜の時を生き続け、移り変わる歴史の変遷を見続けてきたこの大杉の姿は、枯死してもなおその存在感を人々に印象づけています。



枯死しているが、倒れることなく立ち続けているのに驚く。


大杉を見上げる。
まだ生命が宿っているように見える。



2月21日(水)19:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

青谷道_摩耶山_穂高湖_杣谷35

アメヤ跡。ここで飴を売っていたらしい。


仁王門。但し仁王様の姿はない。

仁王門を守護していた仁王様はどこに行かれたのだろう。
旧天上寺の火災の原因は、賽銭泥棒の放火によると聞いたことがある。
その中で唯一残った建物がこの仁王門。



仁王門を潜り抜け、更にその先の石段を登る。


お寺に寄付したお金の額面と寄進者の名前を記した石柱がズラリと並ぶ。


兵庫県立神戸高等学校と彫られた石造物があった。
静哩園と彫られている。
詳細は不明。



2月21日(水)19:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

青谷道_摩耶山_穂高湖_杣谷34

上野道と青谷道の分岐を表す道標。


合流地点に立つ道標。

「→摩耶ケーブル下駅2.2km ←青谷道を経て西灘2.2km →旧天上寺跡を経て摩耶山上0.7km」。

Y氏らの到着をここで待つことにした。

分岐では朝、青谷道の入口で見た女性の二人連れが、ベンチに座って昼食中。
この後の歩くコースを聞けば、掬星台には向かわず、ここから上野道を歩いて下山するという。
推測するに掬星台のゴチャゴチャした喧騒が嫌なのだろう。
しかし、地元の人だから、このようなコース設定が出来る。
我々の様に遠方から来た者は、もったいない気がする。

やがてH氏が現れ、その後にY氏とTu氏が続いた。

Y氏がここで大休止をするといい、Tu氏が彼に付き合うことになった。
Y氏の勧めもあって、H氏と私は先に出発することにした。



上野道を右下に見送って旧天上寺へ登る。


説明板が設置されており、上野道から登ってきたとみられる単独行らしき女性がそれを見ていた。


旧天上寺跡は「摩耶山史跡公園」として整備されている。

摩耶山史跡公園(旧天上寺跡)
摩耶山(702m)は、古来山岳信仰の場であり、大化2年(646年)、孝徳天皇の勅願を受け、インドの高僧法道仙人により仏教寺院が開創されました。
その後大同年間、弘法大師空海によって、摩耶夫人像が奉安され、伽藍が造営されました。
これが、摩耶山忉利天(とうりてん)上寺です。
長い歴史の中で観音霊場や安産祈願の寺として信仰され、最盛期には多くの塔頭、僧侶を抱えた摂津地方第一の大寺だったと伝えられています。表参道である上野道や青谷道、また兵庫方面の人々は布引の東から山に入り天上寺に参りました。
昭和51年1月30日、天上寺は炎上、主要建造物のほとんどを焼失しました。
その後、寺は、開創の地と伝えられる元摩耶(ここより北へ約1.2km)へ移転し再建されました。
神戸市では、旧境内地を歴史・伝説を有する史跡公園として整備を行っています。【以下割愛】



2月21日(水)19:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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