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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


No.12長野神社_烏帽子形山城跡_高向神社_金剛寺

連なる二本の木の根っこが露出している。
チビッコたちに、この上を歩いてみようということらしい。



「曲輪(くるわ)」と記されている。
曲輪とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称。
曲輪



烏帽子形城の復元予想図と説明板。

この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代の初め、元和年間(1615年)までは確実に使用されていました。
城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182mの烏帽子形山に築かれています。
城の築城は南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。
応仁の乱以後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名でこの地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。
そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には曲輪が造られています。
1988年の調査で主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。



礎石建物跡

現在地は、曲輪という烏帽子形城跡の中心部です。ここでは、発掘調査で見つかった2棟の建物の礎石を地上に再現しています。
礎石は、建物の柱などを支える平らな石のことで、柱の腐食や沈下を抑えるために地面に設置されました。
また、礎石建物跡の近くで多くの瓦が出土していることから、この2棟の建物の屋根には瓦が葺かれていたと考えられます。
烏帽子形城のような中世の山城に瓦葺の礎石建物があることは、大変珍しいと言えます。
瓦葺の礎石建物は、大坂城や姫路城などの近世の城では、天守閣をはじめ多くの建物に見られることから、烏帽子形城は中世の山城と近世の城を結ぶ過渡期の姿をしていたと言えます。
平成29年2月 河内長野市教育委員会



神名碑と見られる。
「美葦芽彦遅神(うまし あしかび ひこじ のかみ) / 天之常立之命(あめの とこたちの みこと)」と彫られている。
ウマシアシカビヒコヂ
活力やエネルギー、生命力を神格化した神。
天之常立神
天の永久性を象徴する神。

つづく。



12月27日(月)05:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

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