山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 

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金剛山(カタクリ尾根_文殊中尾根)4

改めてオレンジ色のマーキングを近づいて撮影。


おっと、ササユリの蕾が大きくなりつつある。(赤矢印)


これは、ハナイカダ(花筏)の雄花が咲いている状態。


引き続きカタクリ尾根を歩く。
左、植林帯、右、自然林。



若葉が生い茂り、薄暗くなっている。

つづく。



12月11日(木)06:18 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

金剛山(カタクリ尾根_文殊中尾根)3

コースは細尾谷を渡渉。
左岸に渡る。



撮影した画像の手前で、カタクリ尾根谷を右方向に見送り左折。
カタクリ尾根に取り付く。



少しばかり急登を喘ぎながら登る。


すると、ここにも、オレンジ色したマーキングが見えてくる。
(カタクリ尾根谷分岐から約15分経過)



ここは、カタクリ尾根谷から続く登山道が合流する地点。

つづく。



12月11日(木)06:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

金剛山(カタクリ尾根_文殊中尾根)2

小さな丸太の橋を渡る。


馬の背分岐を左に見送り、しっかりとした丸太の橋を渡る。


暫く細尾谷を遡上。
すると、画像のような木の幹に、オレンジ色っぽいマーキングしたところに出合う。



ヤマブキソウと見られる。(山吹草)
花がヤマブキ(山吹)の木に似ているので名付けられた草花。



オレンジ色のマーキングを近づいて撮影。
このような景観にそぐわないペインティングは止めて欲しいものだ。

つづく。



12月11日(木)06:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

金剛山(カタクリ尾根_文殊中尾根)1

2025年5月20日(火)は、週一恒例、金剛山にNa氏と登った。

百ヶ辻駐車場を利用。
登りは伏見峠登山道~細尾谷~カタクリ尾根~ちはや園地~金剛山遊歩道~山頂広場。
下山は山頂広場~金剛山遊歩道~文殊中尾根(穴熊)~伏見峠登山道。

画像は当日歩いたGPSログを表示。
周回ルートの東側が登り、西側が下山ルート。



トイレを済ませ、府道705号線に出る手前から駐車場管理小屋を撮影。


伏見峠登山道(林道)を伏見峠に向かって歩く。(北東)


このクリンソウは明らかに植栽されたもの。
果たしてここで生き延びられるのだろうか。



画像は細尾谷(シルバーコース)に入渓し、遡上しているところ。

つづく。



12月11日(木)06:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐45/45

唐門。
【AI による概要】
三宝院にある国宝の木造建築で、桃山時代を代表する豪放な意匠の「平唐門」です。
豊臣秀吉による「醍醐の花見」の翌年(1599年)に造られ、かつては朝廷の使者を迎える際に開かれた門です。
黒漆塗りの門に、金箔を施した菊と五七の桐の紋が大きく彫り込まれています。

特徴と歴史
・建立: 豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」の翌年、慶長4年(1599年)に建立されました。
・デザイン: 豪快で華やかな桃山時代の気風を今に伝える、唐破風造りの「平唐門」です。
・装飾: 黒漆塗りの門に、金箔で施された菊と五七の桐の紋が大胆に配されています。
・役割: 門跡寺院であった三宝院にあり、朝廷からの使者を迎えるための門(勅使門)として使われたとされています。
・指定: 国宝に指定されており、世界文化遺産の一部です。
・修復: 2008年の落雷による損傷を機に、約1年半をかけて解体修理が行われ、2010年に往時の姿に復元されました。



【参考】
400年前の輝きがよみがえりました!-国宝唐門 「通り初め式」-



総門を潜り抜け、醍醐寺を後にする。


道なりに西方向へ歩く。


2時18分、地下鉄東西線醍醐駅にゴールした。(アル・プラザ醍醐内)

おしまい。



12月11日(木)06:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐44

門の向こう側は醍醐寺の境内。


引き続き未舗装の道を歩く。
この道では、一般の観光客をほとんど見ない。
人通りも少ない。



道幅が広くなり、荘厳さすら感じる。


仁王門。(西大門)
仁王門は1605年(慶長10年)に豊臣秀頼によって再建された。
醍醐寺は<八七四年建立の歴史ある寺院で、複数の建造物が国宝に指定されている。



仁王門を正面から撮影。
左右に見えるのはサクラの木で、唐門まで桜並木となっている。

つづく。



12月10日(水)04:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐43

歩行者専用歩道となっている。


登山道歩きと比べると、ダラダラと続く感じで、まだるっこい。


杖が置かれていた。
ここから先、杖は必要ないのだろう。



轍が見えるので、専用車は通行している様子。(=一般車は通行止め)


この分岐は右へ。(三宝院方面)

つづく。



12月10日(水)04:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐42

ロープ(赤矢印)が途切れると、穏やかな傾斜道となる。


この先、再び下り道。


皆さん、ロープを軽く掴んで下っている。
私はこの程度の傾斜だと、特に必要とは思わなかったが。
まぁ、人それぞれ。



横嶺峠(よこみねとうげ)に到着したようだ。
コースは左へ。(西)



これまで以上に広い道で、歩きやすい。

つづく。



12月10日(水)04:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐41

コースには含まれないが、五大堂を訪れるのは、久しぶりなので、立ち寄ることにした。
参加者の中にも、立ち寄る人が多かった。
尚、この場所に再び戻ってくる。(緑矢印)



聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし)を真ん中に、向かって右に役行者、左に第一世座主・観賢僧正。
以前は像の前まで歩み寄れたが、鎖が張られ立入禁止となっていた。

ところで、理源大師と奈良市の商店街「もちいどのセンター街」に伝わる「餅飯殿」の名前の由来について。
【AI による概要】
「餅飯殿」の由来には、主に二つの説があります。
一つは、理源大師が大蛇退治の際に、供として従った箱屋勘兵衛ら若者7人に対し、餅と飯を分け与えたことから「餅飯殿」と称したという伝説です。
もう一つは、理源大師に箱屋勘兵衛が餅と飯を持参したため、「餅飯殿」と呼ばれるようになったという話です。
・大蛇退治伝説
理源大師が大蛇退治に出かけた際、箱屋勘兵衛と7人の供が一行に加わりました。
一行は、大蛇に苦しむ人々に餅と飯を配りながら大峰山へ向かい、見事に大蛇を退治しました。
その功績を称え、理源大師が若者たちに「餅飯の殿」の称号を与えたことが、地名の由来となりました。
・貢物伝説
箱屋勘兵衛が、理源大師のもとへ参拝する際に、いつも大師の好物である餅と飯を持参していました。
そのため、理源大師が冗談で勘兵衛を「餅飯殿」と呼んだことが、その住んでいた町の名前になったという説です。



五大堂
【AI による概要】
・五大堂は、醍醐天皇の勅願により延喜7年(907年)に建立されました。
・現在の建物は、昭和15年(1940年)に再建されたものです。
・堂内には不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、烏枢沙摩明王の五大明王が祀られており、「五大力さん」の通称で親しまれています。
・毎年2月23日には「仁王会大祭」が厳修され、災難身代わりの霊符が授与されます。



五大堂を後にし、横嶺峠へ降りる。


参道にはロープが張られている。

つづく。



12月10日(水)04:36 | トラックバック(0) | コメント(2) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐40

ここで昼食タイム。
先頭グループは、12:40~13:10の30分間の予定となっていた。



「重要文化財 如意輪堂」の説明板。
色あせて文字が読めない。
【AI による概要】
醍醐寺の如意輪堂は、醍醐寺の開祖である理源大師が上醍醐を開いた際に、准胝堂ととも最初に建てた建物です。
現在の建物は1613年に豊臣秀頼によって再建されたもので、本尊の如意輪観音と脇侍の毘沙門天、吉祥天が祀られています。

・創建: 876年(貞観18年)、理源大師が上醍醐を開いた際に、准胝堂とともに創建されました。
・再建: 現在の建物は1613年(慶長11年)、豊臣秀頼によって再建されました。
・ご本尊: 本尊は如意輪観音で、本尊の両脇には毘沙門天と吉祥天が安置されています。
・特徴: 崖にせり出すように建つ懸造りが見事な美しいお堂です。



如意輪堂は現在、「職員以外立入禁止」。


五大堂方面へ向かう。


コースは五大堂に立ち寄らず、画像左の柵の外側から下へ降りる。

つづく。



12月10日(水)04:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

ブラームス バラード 作品10 ベアトリス・ベリュ

ブラームス バラード 作品10 ベアトリス・ベリュを視聴してみよう。
バラード (ブラームス)
Beatrice Berrut (ベアトリス・ベリュ)

Brahms 4 Ballades op. 10 / Beatrice Berrut, Piano
1.00:00 アンダンテ
2.04:54 アンダンテ
3.11:39 間奏曲~アレグロ
4.16:03 アンダンテ コン モト



12月9日(火)20:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | 音楽 | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐39

「← 准胝堂を経て三宝院(西国11番札所) / 笠取を経て岩間(西国12番札所)」。
この後、コースは准胝堂・三宝院方面へ向かう。
尚、准胝堂は落雷で焼失した為、准胝(観音)堂跡地。



「(梵字) 大日如来 (蓮の花柄)三十七?」と刻まれているようだ。


ここが醍醐山頂(標高四百五十m)を示している。
コースは「女人堂・三宝院 約3.2K 徒歩72分→」へ。



開山堂前にて。


開山堂(重要文化財)

醍醐寺を開いた聖宝尊師は、延喜九年(九〇九)に遷化された。
後を受けた弟子の観賢が、聖宝尊師を祀るために、延喜十一年(九一一)頃に開山堂を建立した。
開山堂は、その後、度々火災にあったが、その都度、再建されている。
現在の開山堂は、慶長十三年(一六〇八)に豊臣秀頼の寄進を受けて新築された。
間口が五間、奥行きが八間で、正面には軒唐破風が付く大規模な建造物である。
同時に内部には雲・竜・牡丹・唐獅子の透かし彫りなど慶長年間の端正で自由闊達な意匠もあり、豊臣時代を代表する建造物でもある。
この再建時に、聖宝像が祀られていた場所の地中から遺骨を収めた壺が出てきており、開山堂は、同じ場所で再建され続けてきたことが判明している。
尚、現在も堂内に安置される聖宝理源大師像は、文応元年(一二六〇)の火災の後、弘長元年(一二六一)の再建時に新たに祀られた坐像であり、肖像彫刻を代表する作品であり、重要文化財に指定されている。
       京都市

つづく。



12月9日(火)06:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐38

ここには、これまで以上の大掛かりな石垣が残っていた。


まったく崩れていない。


建造物が見えてくる。


長大な建物。


道標。
先程見た道標とよく似たパターン。
「右 志(じ)由(ゆ)んれいみち」。
先程は“連(れ)い道”が、これは“れいみち”と刻まれている。

つづく。



12月9日(火)06:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐37

石垣に近づいてよく観ると、とても精巧に造られている。


何か告知をされているようだが、色あせてまったく文字が読めない。


この辺り、奥の院への道は、ほとんど整備されていない。


このコースを歩く人は少ないようだ。


やっと道らしい道になってきた。

つづく。



12月9日(火)06:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

六地蔵駅_供水峠_日野岳_ユウレイ峠_上醍醐36

「右 奥院本宮道 / 左 志(じ)由(ゆ)ん連(れ)い道」だろう。


「← 十二者(ば)ん 伊(い)わまみち」と刻まれているようだ。
岩間寺は西国三十三所 第十二番の札所。



建物の土台に使われた石垣のように見える。
かつてはここに建造物があったのだろう。



風の抜け道と云うか、吹き抜けるところ。
倒木が多く見られる。



石垣に沿って歩く。

つづく。



12月9日(火)06:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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