山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


山歩き

No.18神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

真ん中に「梵字?奉供養??」。
左は「左 うだ道」と彫られている。
ライトアップにより鮮明に見える。



近畿自然歩道の道標がすぐ横に立っている。
「←大宇陀町 石位寺→」。



獣害避けの金網を開閉する。


軽トラだと通行可能だろう。
暫く舗装された道を歩く。



こんなところに田んぼが現れた。
田植えが行われていた直後かも。

つづく。



1月14日(木)06:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.17神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

この道が古くから歩かれている“半坂道”。


歩いて来た方向を振り返って撮影。


土壁に虫籠窓(むしこまど)と、煙出し(けむりだし)のある民家。


アジサイが見頃。
赤色になるのは、土壌がやや強い酸性で、青色になるのは弱酸性。
アジサイ/花色変化の秘密わかる・・



「太神宮」と彫られた常夜燈。
その左下に小さな自然石が置かれている。

つづく。



1月14日(木)06:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.16神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

分岐に見えるが、左下は民家へと続く道。


ここが分岐。
左に錆びた東海自然歩道の道標が見える。
うっかりすると通り過ぎてしまいそう。
コースは石橋を渡る。

ここを直進すると、二軒目となる粟原の親戚の家がある。



通り過ぎた道標を振り返って撮影。
「→大宇陀」と記されている。
側面は「↑石位寺」だろう。

ここでも後続の人達を待つ為、小休止。



石橋を渡ると右側に石造物があったが、餅つきに使われる臼だろう。


コースは道なりに右にカーブ。

つづく。



1月13日(水)06:20 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.15神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

近畿自然歩道の道標「←大宇陀町 石位寺→」と「←粟原寺跡」の道標が並んで立つ。


そして、少し離れたところにも「←男坂傳稱地道」。


側面には同じく「昭和十五年十一月」。
先程見た道標とまったく同じパターン。



左折してからも、引き続き登り道が続く。


ハンゲショウ
植栽されたものだろうが、上手く栽培されている。

つづく。



1月13日(水)06:13 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.14神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

再び歩き出す。
先程の橋を渡って粟原川と別れ、支流に沿って歩くようになる。



前方右に火の見櫓が建っている。


「粟原案内地図」。
ヘッチャ、ハチマンコ、コラダニ、オッパイなど字の地名を眺めていると面白い。

これから歩く男坂は「半坂道」と表示されていた。



この先分岐。
右側は粟原川の支流。
コースは前方に見える橋を渡らずに道なりに進む。



分岐に道標が立っている。

つづく。



1月13日(水)06:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.13神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

このサボテンはよく見かけるが、花が咲いている姿をあまり見たことがなかったのでパチリ。
ウチワサボテン亜科と呼ばれる一種だろう。
右下の青っぽい花はアジサイ。



石垣が綺麗に積まれている旧道を歩く。
穏やかな登り道になっている。

この辺りは比較的よく知っている。
すぐ先に親戚の家がある。



分岐に立つ道標。
「→男坂傳稱地道」。



側面には「 昭和十五年十一月」。


道標を見て右折。
粟原川に架かる橋を渡るが、後続の人達を暫く待つ。
ザックを置いて休憩。

つづく。



1月12日(火)05:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.12神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

ホタルブクロ。
ホタルブクロは珍しい草花ではないが、この季節に初めて見たので撮影した。



舗装された旧道を歩く。
通行するクルマはほとんど見られない。
地域の住民の生活道になっている。

尚、R166はかつて“二級国道”として初回指定された路線の一つ。(昭和28年)
現在はこのような区分はなく一般国道となっている。
国道166号



ホタルブクロの群生地が現れた。


この先、三叉路。
コースは直進。
左上から降りている道は、R166から粟原の集落へ繋がっている。



近畿自然歩道の道標「←石位寺 大宇陀町→」。
道標が立つ場所だけ下草が刈り取られ、道標が見えなくなるのを防いでいる。

上に見えるガードレールがR166。

つづく。



1月12日(火)05:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.11神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

R166の歩道を歩く。
この先、倉橋ため池方面、右分岐があるがコースは直進。



R166の歩道を離れ、並行して通っている旧道を歩く。


近畿自然歩道の道標。
「大宇陀町→」へ向う。



歴史街道の道標。
「→粟原寺跡 約2.0km」方面へ。



旧道沿いに食べ頃のクワの実が生っていた。

つづく。



1月12日(火)05:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.10神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

刈り取った後の状態。
1回でこれほど綺麗に刈り取れるなら、この機械、重宝するだろう。



忍坂街道
「忍坂道伝承地道」の石碑が、この場所と、石位寺から30m西側にある庚申堂前の国道166号沿いにある2箇所に建てられています。
これらの石碑は、聖蹟伝承地が数多くある桜井市(当時は町)が、日本紀元で数える2600年目にあたる昭和15年( 1940年)に建てたものです。
神武天皇東征のとき、東に位置する宇陀(松山)から半坂峠(大宇陀区嬉河原から粟原山頂上の鉄塔の下)を経て粟原へ、そして忍阪の村を通って宇陀ケ辻への道、また向垣内橋から浅古への多武峯への道..。これが『忍坂道』なのです。
この忍坂(押坂)の地を『宮』としていたとされる「忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)」が住んでいたとされている忍坂の土地。
人の行き交いもあったでしょう。
『日本書記』皇極3年(644年)の記載によると菟田山には仙薬とする水銀の鉱床があったとされ、近年まで採掘されていました。
また、宇陀野へは仙薬としての薬草や猪,鹿などの薬物採取を目的として出向いていたのです。
草壁皇子(日並知皇子)や軽皇子が狩猟していた宇太郡漆部里まり阿騎野の里への道なのです。
この時に忍坂を通る道は出来ていたのです。
街道といわれる前に、すでに「忍坂道」があったと言えます。
「忍坂街道」は平成17年に文化庁により『遊歩百選』として『大和の古道紀行』の中に山之辺の道などと共に選定されました。
忍阪区



説明板に記載されている「忍坂道伝承地道」の石碑。


歴史街道の道標。
この日は道標に表示されている「↑粟原寺跡 約2.4km」方面へ向う。



R166に合流し左へ。(東)

つづく。



1月11日(月)05:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.9神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

石位寺を後にする。
正面参道の石段を降りる。



石段を振り返って撮影。
ご覧のように石位寺は小高い丘に位置している。



近畿自然歩道を粟原寺跡方面に向かって歩く。
粟原寺跡までの距離、約2.7km。
この日は粟原寺跡には立ち寄らない。



傾斜地に建つ家屋。


雑草を刈り取りされていた。
この機械、初めて見たが、ラクチンそうに操作されていた。
ただ押すだけ!?

つづく。



1月11日(月)05:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.8神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

境内に立つ「高円山 石位(いしい)寺」の寺号標。
寺号の高円山は、“たかまどやま”ではなく“こうえんざん”と読むようだ。
高円山・石位寺



国指定重要文化財 石造浮彫 伝薬師三尊像
収蔵庫内に安置されている本尊は、我国に現存する最も古い石彫三尊仏で、高さ一.一五m、幅一.五m、底辺一.二一m、厚さ約0.二mの丸みのついた砂岩製の石板に頭上に天蓋をいただいた倚座する如来形像を中心に三尊仏を浮彫にしたもので、寺伝では薬師三尊仏として伝えられているが、本来いかなる尊像として刻まれたものかは明らかではない。
刻出は極めて念入りで三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく表わされており、布の質感表現も巧みである。
長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊仏と形式がよく似ており、白鳳時代のものと思われる。
昭和五十三年十一月 桜井市教育委員会



石位寺境内の石造物
<南東部石碑群>
4基の石碑は、右から3基は「西国三十三所巡礼供養碑」。西国三十三所観音霊場を供養した記念碑的要素が強いものです。
右より戦国末~江戸前期のもので法名を刻み、二つ目は江戸時代初期・正保4年(1647年)で物故者供養、三つ目は寛文4年(1664年)で俗名で構成されたものです。
桜井市史によるとこれらの石碑は、もともと境内の西北隅にあったもので、昭和53年の堂宇の建て直し時に移設されたものです。
また、左端の石碑は、庚申講衆碑で、大型ですが浅い梵字の形状、半肉彫で形骸化した蓮弁などから16世紀後半ごろの戦国末から江戸前期のものと想定できます。
これは昭和28年の国道166号開通よる現・庚申堂の移転に伴い、移設されたものです。
<北西部石造物群>
墓塔や墓標があります。
右端の石碑は、「阿弥陀名号供養碑」です。
通常は「南無阿弥陀仏」と記されますがこの石碑は供養碑として特異な表現となっています。
戦国時代・天文10年(1541年)のものです。
右から3基目は、「六十六部廻国供養塔」と考えられ、戦国時代・弘治2年(1556年)に法華経を66ヶ国の霊場に奉納し無事満願を迎えられたことを記念して建てられたたものです。
他にも、五輪塔火輪の15~16世紀のものや、江戸時代の墓標や五輪塔板碑もあります。
忍阪区



説明板に記載されている<南東部石碑群>。


境内で見られたサルスベリの大木。

つづく。



1月11日(月)05:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.7神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

用水路が流れる角地に道標が立つ。
「舒明天皇御陵道 是ヨリ左へ壱丁」。
この日は御陵には立ち寄らず。



更にその次の辻にも御陵の道標。
「舒明天皇陵 従是左一町」。



やがて「石位寺←」を示す看板が見えたので左折。
歩行者は通行可能。



正面参道は石段が続く。
こちらの方が歩きやすい。



境内の隅に立ち並ぶ板碑などの石造物。
これらの石造物の説明板が境内にある。
【下記に説明文を転写】

<北西部石造物群>
墓塔や墓標があります。
右端の石碑は、「阿弥陀名号供養碑」です。
通常は「南無阿弥陀仏」と記されますがこの石碑は供養碑として特異な表現となっています。
戦国時代・天文10年(1541年)のものです。
右から3基目は、「六十六部廻国供養塔」と考えられ、戦国時代・弘治2年(1556年)に法華経を66ヶ国の霊場に奉納し無事満願を迎えられたことを記念して建てられたたものです。
他にも、五輪塔火輪の15~16世紀のものや、江戸時代の墓標や五輪塔板碑もあります。


つづく。



1月10日(日)05:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.6神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

説明板にある年代不詳の陰陽石。(いんようせき)
“静かに村の安全と繁栄を見守っている”



常夜燈が立ち並ぶ。
元は参道にあったものが、道路の拡張工事等で境内に移されたのかもしれない。



忍坂坐生根神社を後にする。


神社のすぐ前に玉津島明神が祀られている。


頭上がピーピーと騒がしいと思って見上げたらツバメの雛たち。

つづく。



1月10日(日)05:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.5神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

「清酒 金剛力」の看板が掲げられている。
高市郡高取町上土佐、土佐街道沿いにある酒蔵。



やがて左手に整った石垣が続く。


見覚えのある忍坂坐生根神社に到着。
石段を登る。



石段を振り返って撮影。
垂れた三本の注連縄の結界を通り抜けて境内へ入った。



「忍坂坐生根神社」(おしさかにいますいくねじんじゃ)
祭神
 一 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 一天津彦根命(あまつひこねのみこと)
境内社
 一 神女神社(しんにょじんじゃ) 大宮女命(おおみやめのみこと)を祀る
 一 愛宕神社(あたごじんじゃ) 火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る
 一 天満神社(てんまじんじゃ) 菅原道真公(すがわらみちざねこう)を祀る
当社は天平二年(730)の「大倭国正税帳(おおやまとこくしょうぜいちょう)」に、また延長五年(927)の「延喜式(えんぎしきないしゃ)」にも名前が見える古社で、本殿を持たず宮山(みややま)をご神体とし拝殿の北側に神が鎮座する「石神いしがみ」と称する自然石十数個を並べた「磐座(いわくら)」があります。
ここ忍阪の地は隅田八幡宮(すみだはちまんぐう)所蔵の国宝人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう)に刻まれた「意柴沙加宮(おしさかのみや)」の地ともされ、第二十六代継体(けいたい)天皇が磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に即位される以前におられた処とされています。
また忍坂大中姫命(おしさかのおおんかつひめのみこと)や衣通姫(いてとおりひめ)が居られたとも伝わり「大和志料」では額田部(ぬかたべ)氏の祖、天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀るとも記され、平安時代の医書「大同類聚方(だいどうるいじゅほう)」に当社相伝の「以久彌薬(いくねくすり)」(額田部連(ぬかたべのむらじの)上奏(じょうそう))のあることを伝えています。
その薬の製法は昭和の初期まで伝わり、また額田部(ぬかたべ)氏が居住したとするこの地で額田王(ぬかたのおおきみ)と鏡女王(かがみのひのみこ)姉妹との繋がりや息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめたみ)こと(第三十四代 舒明(じょめい)天皇)の陵墓があることから息長氏の大和での拠点の一つであったとされています。
拝殿への石段の左右には境内社の「神女神社(しんにょじんじゃ)」と「愛宕神社(あたごじんじゃ)」を、北側には「天満神社(てんまじんじゃ)」を祀ります。
石燈籠二十四基の最古のものは拝殿下左右の延寶二年(1674)、正面登り口の石橋は正徳五年(1715)の刻銘があります。
また年代不詳の陰陽石(いんようせき)が一基あり、静かに村の安全と繁栄を見守っています。
境内には万葉集巻十三 - 三三三一(作者不詳・洋画家・有島生馬氏揮毫)による万葉歌碑があります。
「こもりくの泊瀬はつせの山 青幡あおはたの忍坂おさかの山は走出の よろしき山の出で立ちのくわしき山いて あたらしき山の荒あれまく 惜おしくも」
平成二十三年九月 桜井市忍阪区

つづく。



1月10日(日)05:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

No.4神武東征伝説の道1(宇陀ヶ辻_粟原_男坂_阿紀神社)

やがて“宇陀ヶ辻”と呼ばれる辻に出る。
文字通り宇陀へと続く分岐点となる辻。

下岡歯科の建物の左に先が尖った大きな石造物が見える。



先が尖った石造物は道路改修記念碑の類だろう。(確認せず)
画像はその右に立つ道標。
「舒明天皇御陵道 従是南へ八丁 / 明治廿七年五月」。



粟原川に沿って歩く。
正面に見える形の整ったピークは外鎌山(とかまやま)292.4m。
別名:忍坂山(おさかやま おっさかやま)又は高圓山(たかまどやま)、或いは朝倉富士、更に大和富士とも呼ばれているそうな。
誰でも好き勝手に名前が付けられる!?



祠があったので立ち寄ってみたが、中が良く見えなかったので撮影せず。
祠付近の清潔な環境から、地元の皆さんの信仰心が篤いことが窺い知れる。



桜井市が立てた歴史街道の道標。
「←近鉄 大和朝倉駅 約1.1km / →石位寺 約0.5km 舒明天皇陵 約0.5km」他。

つづく。



1月9日(土)05:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理


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