山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年12月4日を表示

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)5

「島原大門」を後にし、花屋町通を西に歩く。すぐ右に折れて坊城通へ入ると左に「輪違屋」(わちがいや)が現れる。


入口には「観覧謝絶」の立て札が掛かっていた。


「輪違屋」の説明板。(一部割愛)
輪違屋は、大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(一六八八~一七〇四)の創業と伝える。現在の建物は、安政四年(一八五七)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治四年(一八七一)にはほぼ現在の姿になっていた。
【割愛】
輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和五十九年六月一日 京都市指定有形文化財に指定された。



輪違いの紋。
※「輪違屋」建物の内部を紹介されているサイト。
「ちょっとそこまで」



「輪違屋」を後にする。
この建物、二階の窓がユニークな構造になっている。



12月4日(金)20:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)4

「島原の大門」に設置されていた「島原」の説明板。
島原は、江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永十八年(1641)、官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」とよばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。平成十三年十一月吉日 島原伝統保存会



「島原大門」。慶応三年(1867)五月建築。京都市登録有形文化財。


時代劇の舞台にありそうな光景。


京都市が設置した「島原」の説明板。駒札となっている。内容は先ほどの島原伝統保存会が設置した説明板とほぼ同じ。


先ほどの説明板にあった通り、島原“西新屋敷”上之町となっている。“西新屋敷”が正式名称。右の地図はベニヤ板のような木片を利用して作られていた。


12月4日(金)18:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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