山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年12月21日を表示

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)24

これは井戸ではないと思うが、どういうものかわからない。


やがて右手(北)に立派な屋敷が現れる。樫原陣屋跡(本陣)。


樫原陣屋跡(本陣)の駒札。

山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていました。徳川三代将軍家光公が参勤交代制をはじめますが、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名が宿舎とした所です。最奥の六帖は上段の間につくり、欄間・床・違棚のある書院造りの立派な建造物です。上段の間の横には隠れ間も存在します。玄関の間、六帖、八帖、六帖と四室が続き、その他、七室の併せの構えはまことに立派の一言に尽きます。諸大名が出入りした玄関間は乳門といわれています。玄関の天井板には、筆太に書かれた「高砂少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。大名の宿帳や関札などの多くの古文書も蔵されています。この本陣は、頼まれ本陣とも口伝され、享保4年に、当地の豪族廣田庄兵衛永張が京都所司代板倉氏の依頼により経営に従事、安政二(一八五五)年に、松尾下山田の豪族で足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで五代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣建築であり、平成4年4月1日に京都市指定有形文化財となりました。



公会堂前のバス停を通過。古民家を利用した町屋カフェ「カフェ ちゃーみーちゃっと」


最近リニューアルされた格子の民家。景観にマッチしている。


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山陰道(丹波口駅_亀岡駅)23

小畠川の駒札。

小畠川(こばたけがわ) 公称名は、洛西西幹線用水路であるが、昔から、小畠川別名明智川と呼ばれてきた。嵐山渡月橋畔大堰川から分かれ、「京の五ツ岡」の一つ西の岡十一郷一帯の田畑を潤している。この用水路には種々の逸話が残っています。天正十(1581)年六月二日、本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は、早々に引き上げてくる途中のこの場所で落馬された。それを村人が見て、おにぎりでも食べて少し落ちつきなさいと腰掛も用意する親切をした。明智光秀は礼を言いながら、ときに東の火事は何処であるかご存じか、当てたら望の物を与えよういわれた。村人は即座に、本能寺であると答えると、見事だ何かしてほしいものはないかといわれた。村人は、この辺の水田には水が不足だから、川を造り水を通してほしいと申し出た。光秀はただちに着工したというのである。しかし、光秀は三日後に秀吉に敗れている。この川は信長の命を受け、天正三(1575)年、丹波平定のおり、樫原を補給基地とし、老の坂から樫原・桂までの道を整備した時に、併せて溜池や灌漑用水路を築造したのです。明智川と呼んだのは光秀の領民に対する政策の善かったことの例左でしょう。



小畠川(別名明智川)の流れ。


格子の家。


なにやら見覚えのある折り畳み式の台。


「揚げ素戸ばったり床机」の説明板。

樫原は山陰街道の一番「みやこ」寄りの宿場町で、丹波丹後や方々からの物資の集積地として非常に賑わった町でした。道路から「1間」程後退した所に、母屋があり、物資の置場、往来の方々の休息に、そして景観を考えての建物で、「虫こ窓に紅がら格子」の意匠は今も数多く残って居り、殊に、この藤岡さんの家は「揚げ素戸ばったり床机」の建物で多くありましたが、現在はこの一戸のみで貴重なものです。 樫原町並み整備協議会(英)



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