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2015年12月7日を表示

山陰道(丹波口駅_亀岡駅)6

「きんせ旅館」。
※「きんせ旅館」のサイトによると、推定築年数250年の木造建築で、もとは『揚屋』として作られた建物だが、時代の移り変わりとともに旅館となり、現在は『きんせ旅館』という名前をそのままにし、カフェとして、または文化交流サロンとして営業。



玄関のところに置いてあったが、どういうものかわからない。


やがて立派な屋敷が現れる。


角屋の駒札。
角屋(すみや) 角屋は江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(あげや・現在の料亭)で、明治時代にお茶屋業に編入された後も、昭和六十年(1985)まで営業が続けられた。島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後、六条三筋町に移転し、更に寛永十八年(1641)にこの地に移された。正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから、島原と呼ばれるようになった。島原には、揚屋(あげや)と置屋(おきや)があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場であった。角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和二十七年(1952)に重要文化財に指定された。また、円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の作品を多く蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。江戸中期には、俳檀が形成されるなど文化サロンとしての役割も担い、また、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王の志士たちが、軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に伝える角屋は、現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されている。京都市



先の説明文にある、揚屋建築唯一の遺構。昭和二十七年(1952)に重要文化財に指定。


12月7日(月)19:22 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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