六甲全山縦走①(宝塚駅_宝殿橋バス停)5 |
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| 鳥の形をした香炉だろう。 自然石で作られている。
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| 祠の観音扉を静かに開けてみる。 十一面観世音が彫られていた。 そして右に「十一面観世音」、左に「潮泉山 塩尾寺」と彫られているようだ。
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| 左から続く道。逆瀬川方面からの参詣道とみられる。
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| 左から続く道から祠と合流地点を撮影。 民家が迫っている。宝塚駅からは祠の向こう側の道を歩いて来た。
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| 付近の住所表示。武庫山二丁目となっている。この“武庫”の名前について、
武庫 - Wikipedia によると、 武庫(むこ)とは兵庫県摂津地方の古地名で、尼崎から兵庫までの沿海部を言う。武庫の名は神功皇后紀にはじめて見え、務古とも書いた。(『摂津郷土史論』『古事記』『日本書紀』)
武器を埋めたところ(『神社考』『元亨釈書』)、椋(むく)のある山(加茂真渕『万葉の解釈』)、御子(みこ)の訛(『住吉大社解状』)、向こうの意(『冠辞考』)など諸説ある。
上古文化の中心地である大和を出、難波から船を出さんとするとき、遥か対岸の地を望んで「向こう」と言ったとする説は無理の無い解釈として一般に認められている。 しかしながら、はるか難波の対岸から見えない場所や河川名にまで、武庫の名がつけられていることから、疑問がないわけではなく、古くからいくつかの説がある。 吉田東伍は「大日本地名辞書」、廣田神社の項で、祭神名天疎向津姫(あまさかるむかつひめ)に関して、向か津は武庫津に同じと指摘していることと、かつて向か津峰と呼ばれた武庫山=六甲山全山が往古、廣田神社の社領であったことは、考慮に値する。摂津国風土記(逸文)は武庫の由来について次のように伝えている。
「(神功)皇后は摂津の国の海浜の北岸の廣田の郷においでになった。いま廣田明神というのはこれである。その故にその海辺を名づけて御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫(むこ)という。今は兵庫という。」
この伝承は、兵庫県の旧家である 北風家が寛政7年(1795年)まで家宝として神功皇后の鎧を伝えていたことと整合する。
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5月10日(火)20:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理
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