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NO.19七福思案処_大文字山_志賀峠_志賀の大仏

志賀の大仏の説明板。

「大津市指定文化財 彫刻 石造阿弥陀如来坐像(志賀の大仏)一軀 (大津市滋賀里町)
高さ約三・五メートル、幅約二·七メートルの花崗岩に、厚肉彫に彫出した高さ約三・一メートルの阿弥陀如来坐像です。
十三世紀頃につくられたと考えられ、上半身に彫刻の主力をおいたゆったりとした雰囲気のただよう石仏です。
この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入り口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いづれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています。
現在、地元で「大仏講」がつくられ、大切にお守りされています。
昭和63年11月11日 大津市教育委員会」



志賀の大仏を後にして下ると、辻の角地に磨崖仏が祀られていた。
街道から石段を五段ほど上がった平坦なところにあって、傍らには常夜灯が一基立つ。
元は何か建屋があったほどの広いスペース。

ネット検索すると、鎌倉時代の阿弥陀磨崖石仏とされる。
志賀の大仏と同じく、京へ旅立つ人は道中の安全を祈願し、京から来た人は、旅の安全が成就したことにお礼参りされたのだろう。



「百穴古墳」の道標があったので立ち寄る。

百穴古墳の説明板。

「国指定史跡 『崇福寺跡』内 百穴古墳群 (大津市滋賀里町甲)
百穴古墳群は、今から約一四〇〇年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。
これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。
石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。
表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。
この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。
石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、木や石の棺桶にいれられました。
また石室内には、多くの土器(土師器·須恵器)もいっしょに納められました。
この中には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド·カマ·コシキ·ナベ)も含まれています。
古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪·奈良·和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。
現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
昭和16(1941)年1月、国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会  平成4(1992)年3月」

画像は上記説明板にある“穴のように見える通路の入り口”でこの穴が沢山あることから「百穴」という名前になった。
石室の中にミニチュア炊飯具セットを納めたというのも面白い。



百穴古墳群を後にして、東方向へ歩く。
このあたりから、ようやく琵琶湖が見えてきた。



R161(西大津バイパス)高架下を潜って、京阪石山線の踏切を横断し、京阪南滋賀駅前を通過。
京阪電車に乗っても、結局JRに乗り換えることになるので、ここはJR大津京駅を目指して歩く。
JR湖西線の高架下に沿って南へ歩き、14時52分JR湖西線大津京駅へゴールした。

おしまい。



11月14日(木)17:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

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