山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2014年8月を表示

山科から大文字火床9

山科聖天を後にして、大文字山方向へ歩く。


右に「春秋山荘 高月」(蕎麦)を見遣る。この店はどこかへ移転したようだ。


すぐに分岐となる。道標を見て大文字山方向へ。因みにここから南禅寺・蹴上方向へ歩いたことはない。


南禅寺・蹴上方向へと続く道。


単独行の男性に追いつかれた。左上は後山階陵。(のちのやましなのみささぎ)


8月18日(月)22:04 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床8

不動堂の扁額(へんがく)。右の“じゅんていかんぜおん”は「准胝観世音」が一般的だと思うが。


不動堂の右奥に「山科聖天不動瀧」がある。


不動瀧に祀られていたお不動さん。光不足なので、フラッシュ撮影。


「二股大根」。このほか「巾着」の図柄もあった。二股大根は女性、巾着は男性をイメージするという。


山門の手前に祀られていた地蔵菩薩。


8月18日(月)22:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床7

山科聖天への参道。下へ降りる。


山門。


山門から入って、右上に聖天堂。正面に不動堂。


こちらが不動堂。


「山科聖天」のご由緒。


8月18日(月)22:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床6

宸殿(しんでん)。
案内によると、「御所にあった後西天皇の旧殿を貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院とした。」



枝垂桜。
案内によると、「“毘沙門しだれ”と呼ばれるシダレザクラの古木で、幹周_2.30m、樹高_7.8m、樹齢_100年以上。」



玄関。


毘沙門堂の山号。「護法山」。


毘沙門堂の塔頭である「山科聖天」へ裏参道からお参りする。


8月18日(月)22:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床5

毘沙門堂への石段。画像の白い服の女性は、この後、山科聖天まで、私たちと前後してお参りされていた。


石段を登る。石段の右手に大きなヤマモモの木があったが、枝は少なく、実も生っていなかった。


仁王門(におうもん)を潜る。正面は本堂。本尊の毘沙門天(秘仏)が祀られている。


京都市が設置した説明板。天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。


こちらは地元の“やましな”協議会が設置した説明板。


8月16日(土)20:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床4

瑞光院。


説明板。忠臣蔵ゆかりのお寺。中には入らず。


ヤマボウシの実。食べたことはないが、ネット検索すると、生で食べれるという。アケビに似たような、ちょっとバナナにも似たような南国系の味だそうだ。ヤマボウシは自宅の庭にもあるので、一度、食べてみたい。


やがて、正面右に毘沙門堂の石段へと通じる石橋、極楽橋が現れる。


付近はカエデの木が多く、紅葉の頃は見事だろう。


8月16日(土)20:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床3

毘沙門堂の道標。是ヨリ 北三丁。


一方通行ではないが、この道でクルマが対向するのは難しい。


上手く剪定しているものだ。


「左ハ毘沙門道」だろう。


T氏が民家の排水溝の擁壁に使われている石仏を発見。周りの石は後の時代になって整備されたものだろう。石仏は元から使われていたように見える。


8月16日(土)20:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床2

京阪・京津線の線路に沿って東へ歩き、毘沙門堂、山科聖天の案内板を見て左折、JR東海道本線の線路下を潜る。


琵琶湖疏水に到着。川べりを散歩する人たち。


“国鉄”山科駅という表示が懐かしい。


琵琶湖疎水に架かる安朱橋を渡る。


画像は上流の琵琶湖方向の眺め。


8月16日(土)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 山歩き | 管理

山科から大文字火床1

2014年8月14日(木)は、京都・東山、大文字山へ山科駅から登った。8月31日に実施される「ウォーキング娘」の下見でT氏と二人。毎年、8月16日に京都では五山送り火が開催されるが、その2日前の山行となった。尚、16日は午後2時から大文字火床へは立入禁止となる。山科駅から大文字山・大文字火床へのコースは、過去、3回歩いていた。内、山科駅側から2回。銀閣寺側から一回で、直近は2008年5月1日。この登山ルートは、2013年の台風18号の被害で、毘沙門堂から先、様変わりしていた。途中に大きな山崩れの箇所があり、この土砂や倒壊した樹木を取り除く為に、重機が入った形跡があって、登山道は崩壊地まで、林道に様変わりしていた。

コース・タイム
9:22山科駅_9:36琵琶湖疏水_9:46毘沙門堂9:56_9:58山科聖天10:05_10:09蹴上分岐_10:11後山階陵前_10:39大崩壊地_10:58道標(大文字山)_11:11Dコース尾根道分岐_11:27東山トレイル(44-2)出合_11:36東山トレイル(45)・大文字山四つ辻_11:46大文字山・昼食12:28_ 12:39道標(大文字火床・銀閣寺)_12:55大文字火床13:16_13:25千人塚_14:04行者の森14:08_14:10八神社14:18_14:20銀閣寺前_14:25トイレ・休憩14:40_14:42哲学の道入口_14:57安楽寺分岐_15:01大豊神社前_15:09岡崎神社前_15:22平安神宮前_15:42祇園新橋_15:49四条通り ★反省会 16:01ビヤホール・ミュンヘン17:37_17:45祇園四条駅

画像はこの日歩いたGPSログ。



歩いたルートの標高差を示している。


山科駅にて。天気予報では京都市山科区は午前9時から正午まで弱雨。東山区も同じ。結果は、予報通り弱い雨が降った。


「毘沙門堂」の案内板。これを目印に歩く、と云っても迷うようなところはなく、この先左折(北)して一直線。


「本願寺 山科両別院 是より 左六丁」の道標。記銘は明治42年12月。ここには行かないが、“両別院”とは、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派のことだろう。


8月15日(金)18:33 | トラックバック(0) | コメント(8) | 山歩き | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺38

元山上口駅は駅名の通り、元山上・千光寺の最寄り駅。


近鉄電車で王寺駅へ出て、王将・王寺店で反省会となった。


終了後、王寺駅から生駒駅へ出て、近鉄奈良線に乗って帰宅した。おしまい。


8月13日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺37

本堂(金堂)の右手に祀られている鎮守社。


金勝寺を後にする。来た道を戻り、近鉄生駒線の踏み切りを横断。生駒線は単線。


竜田川に架ける綱架けの神事。


勧請綱の説明板。3で龍神信仰との関わりを説明している。


元山上口駅に到着。


8月13日(水)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺36

磨崖石仏群。中央に二体。右上と右下にもある。
※金勝寺のHPによると、「右上部の石仏に続いて室町時代から江戸時代にかけて追刻された石仏群。 中央に見える矢田寺型地蔵には「康正二年丙子六月日(1456年)」の造立年号がある。」



「線刻不動明王」。
※金勝寺のHPによると、「岩壁に刻まれた不動明王像は、自然の風化や苔などで姿が分かりにくいが右手に剣、左手に羂索縄(けんさくなわ)を持って岩座に立つ。右下方に「僧快慶」の銘がある。鎌倉時代、二度にわたる元寇を迎えた鎌倉幕府の命により全国各地の寺社で『敵国調伏』を願って不動像の造立が盛んに行われた。この不動明王像もそのひとつで、当時この磨崖仏の前に護摩壇が組まれ祈祷が行われた。」
※金勝寺のサイト 「線刻不動明王」の拓本 不動明王図。
http://kinsyouji.or.jp/img/treasure/p09_b.jpg



弁財天だが、池に水はない。
※金勝寺のHPによると、「当地は古くから龍神信仰があり、山門の前を流れる竜田川には大正時代まで龍穴があった。1200余年前に行基菩薩がこの地に寺院を建立したのはこの地に龍が住むと信じられていたからだと寺伝にある。龍穴は大正時代に鉄道建設のためダイナマイトで爆破されたが、今も毎年一月三日に龍神の化身である雌雄二体の綱を打ち、竜田川に架ける綱架けの神事が残っている。無量寿殿の裏の小さな池にある弁才天の祠は、鎮守社に祀られている清瀧権現とともに、古くからの龍神信仰として大切にお祀りしている。」
龍穴、ダイナマイトで爆破とは。感無量。



十三重石塔。
※金勝寺のHPによると、「層塔は三重以上の層が多い物で十三重塔まで奇数を持って造立される。仏塔は釈迦如来の舎利を納める為に造られた塔である。下から基礎・塔身(初重軸部)・屋根・相輪で構成される。この塔は高さ3メートル、塔身の四方に月輪を刻み、金剛界四仏の種子を薬研彫する。最上部の相輪が欠損している。鎌倉後期。」



境内で暫く休憩。


8月13日(水)17:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺35

総門を潜ると正面に本堂への石段がある。右の建物は社務所。


金堂(本堂)。ややこじんまりとした印象。
※金勝寺のHPによると、聖武天皇の御代、天平十八年(746年)、行基菩薩の発願のより創建。創建当初は十間四面であったが戦国時代の焼き討ちで焼失し、寛文五年(1666年)に仮堂として半分の規模の五間四面の大きさで再建され、現在に至っている。本尊は薬師如来。



本堂の左手、磨崖石仏群を拝見する。画像は磨崖仏「茶々逆修(の石仏)」と説明板。


「茶々逆修の石仏」。
※金勝寺のHPによると、「不動磨崖仏の下方に船形に彫り込んで像高70cmの矢田寺型地蔵が彫られている。像の脇に「茶々逆修」「天正十四年丙戌卯月二十四日(1586年)」の刻銘がある。興福寺の『多門院日記』によると戦国時代に平群谷を支配した驍将 嶋左近の妻「ちゃちゃ」の逆修供養の仏として造立されたものという。逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることをいう。」



向って左に「薬師如来坐像」。
※金勝寺のHPによると、「方形の彫り込みの中に像高56cmの薬師像を浮き彫りしている。彫り込みの上にある横穴の柄穴(ほぞあな)には当初は笠石のような雨よけがあったと思われる。」
その右に「宝筐印塔」。
※金勝寺のHPによると、「宝筐印塔は一切の災難から助かることを願い、塔身部に宝筐印陀羅尼経という経典を納めたことからこの名がある。高さ88cm。相輪部に別の宝珠を載せる。」



8月13日(水)17:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺34

同じく入口付近の磨崖仏。苔生している。手入れがされておらず、みすぼらしく見える。


「おっ、こんなところにも磨崖仏があるやん」とY氏。F氏が指差す方向は磨崖仏とは違うようだ。


正面に見えるお寺が金勝寺。


近鉄生駒線の踏み切りを横断。すぐに竜田川に架かる橋を渡る。


真言宗 室生寺派 金勝寺。このお寺を訪れるのはこれが初めて。


8月13日(水)17:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺33

砂埃を浴び、今にも埋もれそうな石仏。


金勝寺墓地を後にする。西へ向うと、左手に立派な建物があったが、「かんぽの宿・大和平群」。金勝寺へは右折。


民家の横を通る。前方、右方向には金勝寺墓地への旧道があるらしい。


旧道を様子見されたK氏。藪っぽかったとかで、すぐに引き返してきた。


旧道の入口付近にあった五輪板碑?


8月13日(水)17:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理


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