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近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2014年8月12日を表示

矢田山磨崖仏_金勝寺31

六地蔵4/6。持物は琵琶に見える。


六地蔵5/6。両手だが持物は不明。


六地蔵6/6。持物はなく合掌のお姿。


「椣原墓地」と彫られた石標。


十三重層塔。
※平群町のHPによると、「金勝寺墓地(椣原惣墓)の北東に立てられた層塔で、花崗岩製。高さ約4.4m、一層目笠 幅0.9m、軸部幅0.49cm。地震等で幾度か倒壊しており、一部の屋根が欠けている。軸部には金剛界四仏が月輪(がちりん)中に薬研彫され、紀年銘はないが、屋根部分の厚みや反り、軸部の種字の刻み方などより鎌倉末期頃の作と考えられている。相輪部分は兵庫県南部地震で落下したため、金勝寺が保管している。この墓地は、椣原・上庄・西向・吉新・櫟原(椿木)の惣墓(そうばか)[共同墓地]であり、墓地を代表する向塔(こうとう)としてその中央に立てられたものであろう。墓地内には多数の貴重な石造文化財が伝えられている。金勝寺の下寺(付属寺院)である円満寺も所在し、竜田川の対岸にある金勝寺を彼岸に、当墓地を此岸とする考えもある。」



8月12日(火)12:16 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺30

墓地に入ってすぐ、一番最初に見た石仏。細目で、口元をキュッと締め、瞑想中のように見える。今、撮影した画像を見ると、石仏にはひびが入っているように見える。実物を観た時は、このようなひびには気づかなかった。
※「石仏の辻」によると、「船型如来立像 延宝六年(1678) 手に華皿を持つ「平群谷」より。
※ネット検索すると、「華皿(はなさら)は華籠(けこ)とも呼ばれ、法要の際に散華する花びらを盛る器。」



十三仏石塔。
※金勝寺のHPによると、「南北朝時代~鎌倉時代にかけて全国的に広まった民間信仰。死者の追善供養のため(ときには逆修供養のため)、初七日不動・二七日釈迦如来・三七日文殊・四七日普賢・五七日地蔵・六七日弥勒・七七日薬師・百ヵ日観音・一年勢至・三年阿弥陀・七年阿閦・十三年大日・三十三年虚空蔵である。この十三仏は高さ173センチ船型を作り、天蓋の下面に13尊の像を浮彫りする。像の横に尊名を刻み分かりやすい。室町時代後期、天文22年(1553)3月15日の銘や新三郎逆修の銘文から逆修供養として造立されたことがわかる。」
【 金勝寺墓地の十三仏説明図 】「忌日供養の仏像十三体を三列四段に配置。右下の不動明王から左に進み、ジグザグに上に進む。 最後が三十三回忌の虚空蔵菩薩である。」
尚、Weblio辞書によると、文中の「逆修供養」の「逆修」とは、生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと。
※金勝寺のHP http://www.kinsyouji.or.jp/treasure/index.html



六地蔵1/6。持物(じもつ)は、右手に錫杖、左手に宝珠。
※金勝寺のHPによると、「地蔵菩薩は、六道の世界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人界・天界)の衆生の救済と教化につとめる仏。江戸時代延宝6年(1679)頃に造立されている。これから六道に旅立つ死者を守るため、死者の世界と現世との境である墓地に立っている。」



六地蔵2/6。右手に錫杖、左手に宝珠らしきもの。


六地蔵3/6。両手で蓮華らしきもの。


8月12日(火)12:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理

矢田山磨崖仏_金勝寺29

雑木林から抜け出ると、突然、展望が開ける。正面に生駒山地。時々、この近辺をクルマで走るが、画像のピンクの建物は記憶にない。後で地図を見て確認したら、東山駅の少し先、菊見台の住宅地を抜け、R168平群バイパスに入ってすぐのところだった。尚、画像のピンクの建物は「お食事ほがらか園」。


北西方向に生駒山を望む。


クルマに注意してR168平群バイパスを横断。画像は振り返って撮影。このようなところから、矢田丘陵への取り付きがあるとは知らなかった。


舗装道路を道なりに西へ歩く。左手は住宅地。住所は平群町椣原(しではら)となっていた。椣原の“椣”とは、カバノキ科の落葉高木の総称で、四手とも書く。その昔、シデが近辺に密生していたので、その名がついたのかも。


ほどなく、右手に金勝寺墓地が現れる。


8月12日(火)12:09 | トラックバック(0) | コメント(0) | 石仏 | 管理


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