朝護孫子寺_三室山_三室古墳_龍田大社20 |
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| 柿の実が生っていた。 渋柿だろう。
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| この先、十字路になっている。 スマホを取り出し、直進(旧道)した場合のコースをチェックした。 すると、三郷町立野北方面へ続いており、意図していない方向なので、右折して車道歩きとなる。
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| 十字路から振り返って撮影。 降りてきた道には、葉っぱが積もっており、クルマが通行していないように見える。
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| 車道を暫く下ると、道路の補修をしている現場に出た。 作業をしている人に、この先の道を尋ねたが、地元の人間ではないので分からないとの返事。
やがて、右側に分岐があった。 これは本堂の集落から下ってくる道だろう。 先程、三叉路で右折したら、この道に繋がっているようだ。 分岐には“本堂”と記されたポールが立っていた。(画像)
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| 分岐で休憩となる。 この分岐には、道路標識が取り付けられており、左方向はクルマが通行可能となっている。 休憩していると、一台の普通車がやって来て、左折して行った。
ところで、この本堂という集落だが、 大狛神社の説明板にあったが、 「柏原市本堂は・・古代には河内国大県郡巨麻郷と呼ばれ、狛氏が住んでいた土地です。」 “巨麻郷”について下記のサイトによると、 巨麻郷
「現柏原市の信貴山南側の山中に本堂という集落があり、式内社大狛神社と伝えられる同名社が鎮座する。 「河内志」「河内名所図会」には、この社が山王社と称されているという。 その社がなぜ大狛神社であるのか、根拠が明確でないが、他に大狛神社の鎮座を伝える地もなく、これによって本堂の地を巨麻郷にあてるのが通説である。 高句麗系渡来人の住みついた地であろう。」
また、下記柏原市のサイトによると、 【コラム】大県誕生から1,300年(5)堅上郡の分離
「「狛」あるいは巨麻(こま)郷の「巨麻」は「高麗(こま)」のことで、高句麗系の渡来系集団の居住地だったと考えられます。」
つづく。
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1月12日(金)07:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理
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