山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2015年7月24日を表示

大木の里から犬鳴山の道17

春日神社を後にする。祠が見えたので立ち寄る。


お地蔵さん。口元が縦に長く表現されているようだ。


暫く歩くと「土丸城の由来」の説明板が設置されていた。ここ春日神社の前から登山道が続いている。
※「いずみさのなんでも百科」によると、土丸城は土丸山(城ノ山)の頂上付近にあり、槌丸城とも書かれる中世の城址。築城年代は不明ですが、南北朝のころに築かれたものと思われます。紀州と和泉を結ぶ往環道に位置し、戦略上重要な土地であったこの城では、楠木正勝や細川頼元、山名義理、橋本正高など、有名な武将が活躍しています。元和年間の土丸城絵図には、本丸、二の丸、三の丸や守備兵の宿泊小屋などが描かれていますが、近世的城郭のイメージで描かれたものといわれています。今も山上には、龍王神社や顕彰碑、古井戸、武者かくしなどが残されています。また、谷をへだてて相対する雨山には雨山城跡(熊取町)があり、土丸城を雨山城の出城と考え、二つ合わせて雨山城と呼ぶ場合があります。



クルマに注意しながら車道を歩く。


ここにも祠があったので立ち寄る。


7月24日(金)19:52 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道16

春日神社、拝殿の奥に祀られていた摂社。後方にも小さな社殿があり神々が祀られていた。
※この摂社は、「またり社」とみられる。



拝殿の奥の様子。拝殿の奥は鍵が掛かっていなかったので入ることが出来た。


お供えを鳥などの獣害から守る為に金網が掛けてあるのだろう。


春日神社の前の広場に設置されていた「国史跡・日根荘(ひねのしょう)遺跡」の案内板。
※国史跡 日根荘遺跡 泉佐野市歴史文化プロモーション事業のサイト
http://www.hinenosho.com/21.html



「国史跡・日根荘遺跡」の案内板を見る皆さん。後方は春日神社と鎮守の森。左は地元の子供さんたち。


7月24日(金)19:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道15

老人ホーム泉ヶ丘園の駐車場前に置かれていた「昇り竜」。ここから引き返す。


その後も、道迷いがあったが、樫井川に架かる橋を渡って、土丸の集落に入って来た。


前方に巨樹が見える。これから訪れる「春日神社」の鎮守の森。


巨樹はクスノキで何本かあった。ここで小休止となる。


境内に置かれていた道標。「右 またり神 道」。またり神とは?(画像はライトアップしている)
※「いずみさのなんでも百科」によると、疫病退散の神、麻多利(またり)神を祀った民間信仰。地元では麻多利はマタリンさんと呼ばれています。明治時代に流行したコレラやチフスなどの外来の伝染病を退散させようと、大木の人々が仏教の強力な神、麻多利、摩軻迦羅(まかかーら)(大黒天)を迎えて祀ったものです。上大木では今も7月24日に大祭を行います。マタリンさん信仰は土丸や山向こうの貝塚市秬谷、大川でもありますが、開国後に近代文明とともに入ってきたおそろしい伝染病に対してなすすべもなかった山里の人々が、マタリンさんに頼った心情がしのばれます。



7月24日(金)19:50 | トラックバック(0) | コメント(3) | ウォーキング・散策 | 管理

大木の里から犬鳴山の道14

車道を歩く。クルマはほとんど通らない。大井関公園を過ぎたあたりから、泉佐野市日根野から、泉佐野市土丸(つちまる)に変わっていた。前方に阪和道の高架が見える。


今年クリは豊作と聞く。


東方向に見えた美しい二双の山。左のピークが雨山312m、右のこんもりとしたピークが土丸城跡287mだろう。2014年3月に、この日と同じ「おおばこ」で歩いた記憶が甦ってきた。


「たまねぎ小屋」。稲作の裏作として栽培されているので、残念ながら、この時季、たまねぎは見られない。


車道から離れ、樫井川の方向へ歩くが、道が違っていたようで引き返すことに。


7月24日(金)19:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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