山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月5日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり20

中央に不動明王と左右に脇侍、
向かって右:矜羯羅童子(こんがらどうじ)。

矜羯羅童子 (こんがらどうじ)とは【ピクシブ百科事典】 によると、不動明王に仕える八大童子の7番目の尊格である。制多迦童子と共に不動明王の脇士を務める。その姿は15歳程の童子であるという。名はサンスクリッド語で「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」を意味する"Kiṃkara"に由来し、仏法に対する恭順を示す。

左:制吒迦童子(せいたかどうじ)

制吒迦童子(せいたかどうじ)とは - コトバンク によると、仏教の守護神。不動明王の脇侍(きょうじ)で矜羯羅(こんがら)童子と対になる。不動八大童子のひとり。性悪をあらわすものとされ,像はおこった紅蓮(ぐれん)の顔につくられる。制多迦童子ともかく。

興徳寺のパンフレット によると、世の中の煩悩を火で焼き尽くし平和をもたらそうと燃えていらっしゃるので「ありがとうございます」と言う気持ちで水向け供養してください。



「大阪第十一番 准提觀世音菩薩 興徳寺」と彫られた石柱が立つ。


准提觀世音菩薩像。

興徳寺のHP及びパンレットによると、准提仏母(じゅんていぶつも)七倶胝(しちくてい)仏母とも言い、無数の仏を生んだ母であることから、また古来インドで密教の女神であることから、仏母といわれています。我が国ではとくに子授けと安産の観音さまとしてお祀りされ、除災・延命・子授け・安産を祈願する祈祷法があり、これを「准提法」といいます。史実によれば真言宗の高僧、理源大師聖宝がこの准提仏母尊による求児法を修して朱雀村上二帝の誕生を得たことから、日本では六観音の一に加えて尊崇されてきました。その御手の数は二臂(ひ)より八十四臂まで各種説かれていますが、我が国では三目一八臂像が多く、それぞれの御手に持たれた仏具には種々の功徳があります。
高さが33尺(約10m)あり遠くからでもよくわかります。



境内の様子。早くも鯉のぼりが揚がっていた。
興徳寺を後にする。



南へ歩き交差点で右折(西)する。


4月5日(火)20:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり19

山門前に建つ石柱。右から「高野山 立里 三宝大荒神」。「攝州八十八箇所 第十二番 興徳寺」。「大坂 觀世音三十三所」。

摂津国八十八箇所 - Wikipedia によると、摂津国八十八箇所(せっつこくはちじゅうはちかしょ)とは、江戸時代中期(安永年間・1772年~1781年)に、四国八十八箇所霊場に擬して、真田山観智院(第16番札所・観音寺)の月海上人により開かれたとされる摂津国(大阪府北部と兵庫県の一部)にある八十八箇所の霊場。江戸時代には、熱心な大師信仰に支えられて殷賑を極めたと伝えられるが、明治の廃仏毀釈、大阪大空襲による被災などで多くの寺院が灰燼に帰すなど、不幸な戦中戦後の荒廃を経て、六大院(第14番札所)前住職・小原孝澄大僧正の積年の念願が実を結び、ようやく昭和55年1月、全札所寺院の結集がなり、霊場再興が成し遂げられた。(参考図書:「摂津国八十八所巡礼」摂津国八十八所霊場会編、朱鷺書房発行)

大坂三十三観音札所 によると、大坂三十三観音霊場は、近松門左衛門の「曾根崎心中」冒頭に登場する霊場です。1996年に、「大坂三十三所観音めぐりの復活を願う市民の会」により、再興されました。 残念ながら、移転・廃寺などの理由により、当時の所在地に現存しないお寺なども多いのですが、将来は各札所に共通の碑が建てられる予定です。
→ 先ほど見たご詠歌が記された石柱(碑)のことを指すのだろう。



山門を潜ると足元に「ふみ石」と彫られた敷石を踏むことになる。

興徳寺のパンフレット によると、四国88箇所霊場のお砂を納めています。この石を踏めばお遍路を回ったことと同じ功徳があるようです。

興徳寺



地蔵菩薩。
左の黄色い花はレンギョウ。大きく刈り込んである。



役行者像。しゃがんでいるように見える。


サクラの古木。ソメイヨシノかな。
2016年4月4日(月)に夜桜を観ながらJAZZを聴く催しが興徳寺で開催されたようだ。

お寺でJAZZ 第2弾! | ★夜桜と音楽と★ | お寺でJAZZ | 満開 | 興徳寺



4月5日(火)20:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり18

心眼寺を後にする。心眼寺の山門から階段を降りて、先ほど歩いて来た心眼寺坂を眺める。
左に見えるフェンスの向こうは大阪明星学園のグラウンド。



山門前の道路を隔てた歩道に「真田丸顕彰碑」が建立されていた。

【前半部分割愛】

 「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。

 平成二十八年一月 天王寺区役所
       協力 大阪明星学園
       題字 脇田龍峯


「真田丸はどこにあったか?」地元を調査して歩く



顕彰碑はごく最近設置されたもの。
この画像は2016年1月31日に撮影した。この時はまだ除幕前。



心眼寺の南隣、興徳寺の山門。このお寺も少しお邪魔することにした。


興徳寺は「大坂三十三所観音めぐり 第十一番札所」。
ご詠歌は「ぎやくえんも もらさですくふくわんなれば じゅんていだうは たのもしきかな」。



4月5日(火)20:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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