山歩きの記録+etc
 
近畿の山歩きやウォーキングの記録
 


2016年4月6日を表示

上町台地から天王寺七坂めぐり23

谷町7の交差点で左折(南)。谷町筋を南へ歩くとすぐ左手に「国指定史跡 近松門左衛門墓」と記された立派なプレートと案内板が目に留まる。

国指定史跡 近松門左衛門墓

 近松門左衛門は、享保九年(一七二四)に七二歳で没した。近世で最も著名な劇作家の一人である。近松は竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を超える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を著している。
 「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は、今日に通じるところも多く、伝統芸能や演劇・映画などの中で再創造され、たくさんの人々に感動を与え続けている。
 近松門左衛門墓は、当初近くの法妙寺(現在大東市へ移転)境内にあったが、昭和五五年(一九八〇)財団法人住吉名勝保存会はじめ市民の方々の協力を得て、当地に移転し、整備が図られた。

 平成七年十月二十八日
  大阪市教育委員会



人一人がようやく通れる路地のような狭い道を進む。
それより左右に壁があって、今や死語となったが「コンクリートジャングル」の中にお墓があった。



「近松氏 / 施主 / 正七」と彫られているのは墓石の台石(台座)らしい。


「阿耨院穆矣月一具足居士 / 一珠院妙中日事信女」と彫られた墓石。
「阿耨院・・・」は門左衛門、「一珠院・・・」は妻の戒名。
墓石の裏面は確認せず。



谷町筋を南へ歩く。背丈の揃った街路樹が行儀よく並んでいる―笑。


4月6日(水)20:58 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり22

横断歩道を渡ると正面にこの看板。
悪縁つ寺 鎌八幡
このキャッチコピー、一度聞いたら忘れないくらいインパクトがある。



山門前に立つ石柱。史蹟 契沖舊庵「圓珠庵」竝墓。
(しせき けいちゅうきゅうあん「えんじゅあん」ならびにはか)

コトバンク によると、 江戸時代の国学研究の基礎をつくった契沖(1640~1701年)の足跡を顕彰する重要な場所として、1922年(大正11)に国の史跡に指定された。現在、上町(うえまち)台地の真田山の西にある円珠庵に引き継がれており、円珠庵は真言宗御室派に属し、契沖が初めて業を受けた妙法寺の末寺。旧庵は本堂の西に建てられた桁行5間、梁行3間半の茅葺きの建物で、戦前までは江戸時代の珍しい旧態を残していたが、空襲で全焼した。契沖は尼崎に生まれ、11歳のとき今里の妙法寺で出家、高野山で修行し各地を流浪した。代表的著作である『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』は水戸光圀(みとみつくに)の依頼で、師の下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって万葉集を注釈したもの。古典研究の底に流れる復古思想は、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)らに引き継がれ和学・国学の主流をなした。契沖の墓は本堂裏の墓地内にあり、親交のあった下河辺長流、医師華岡鹿城の墓もある。

円珠庵 - Wikipedia によると、 鎌八幡は、圓珠庵の境内にあって、元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。

山門から境内に入ろうとしたら、「境内全域 撮影禁止」と表示されており、この画像一枚を撮影して早々に立ち去った



「三韓坂」の表示。

※⑥三韓坂(さんかんざか)・・・近くに平安時代に築かれた外賓接待のための館「鴻臚館(こうろかん)」があったとの説がある(鴻臚館の位置については諸説ある)。鴻臚館は三韓館、難波館ともいわれたことから三韓坂の名が伝わった。



左に高津中学校の校舎を見て歩く。住所表示は天王寺区空清町7。
やがて右手に公園が現れる。「空清町公園」。(からきよちょう)



上本町4の交差点を横断して暫く歩く。
谷町7の交差点の手前、道路の真ん中に、まるで川の中州のような舟形をしたところが現れる。
その中に鳥居とご神木のような樹木が見えた。
ここは「楠木大神」が祀られており、ネット検索すると幾つかヒットする。

危険!?これぞ道路のど真ん中に立つ御神木! 谷町7丁目「楠木大神

車道の真ん中になぜ巨木? 大阪中心部のミステリー

要約すると、この場所は元は本照寺というお寺の境内にあたる。大正10年、街路整備のために本照寺境内を市が買収。楠を切ろうとすると工事人に怪我・病気が続出。白蛇を見たという人まで現れ、工事人が集まらなかった。やむなく道の真ん中に残すことに。戦後大阪に来た進駐軍もこの木を残し、地元の人が祠や注連縄を張り、通りの名前も「楠木通り」と呼ばれるようになった。



4月6日(水)20:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理

上町台地から天王寺七坂めぐり21

歩道脇に植栽されているクリスマスローズ。
環境が合っているのか大株になっている。



朱塗りの山門と鐘楼が現れる。寺標には「大阪高野山 準別格本山 六大院」。
境内が狭いようで、大勢で押しかけるのも気が引けたので、この日は拝観せずにそのまま通過した。

六大院 - Wikipedia によると、高野山真言宗・別格本山。高野山金剛講大阪市本部。本尊は不動明王と弘法大師。寺伝によれば、行基菩薩が創建したと伝えられるが詳しいことは分かっていない。年代は不明だが、真言宗大覚寺派に属していた時期があった。中興は、江戸時代末期の木食祐伝上人による。祐伝上人と、そのあとの代の祐範上人が四国に渡り、四国八十八箇所の霊場寺院の山主により開眼された、四国八十八箇所の石仏を背負い、10数余年の歳月をかけて六大院に奉祀した。小原孝澄が昭和3年(1928年)に晋山(しんざん)し、住職となり、荒廃していた六大院の復興に努めたが、昭和20年(1945年)3月の空襲により諸堂など、すべてが灰燼に帰した。昭和29年(1954年)に本堂の落慶法要を厳修した。また、小原孝澄は、戦中・戦後に荒廃し、中絶していた摂津国八十八箇所霊場を復興するために力を尽くした。昭和55年(1980年)1月に札所寺院の結集がなり、摂津国八十八箇所霊場が復興するに至った。



「四国八十八箇所霊場」と彫られた石碑。
後で調べると、先の説明文にある中興の木食祐伝上人が安政五年に建立したもの。



餌差町交差点の横断歩道を渡る。分岐に立つ緑のベストを着たスタッフの人。
スタッフの人は分岐のみならず、(この時の場合のように)直進の場所にも立っていた。



横断歩道を渡って六大院を振り返って撮影。
あまり広くない境内に鐘楼の存在感が大きい。



4月6日(水)20:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | ウォーキング・散策 | 管理


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