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2019年2月14日を表示

なにわの熊野街道(天満橋_阿倍野橋)

2019年1月26日(土)は土曜会に参加した。
タイトルは「なにわの熊野街道(天満橋~阿部野橋)を歩く」。

<概要>
以前から大阪のど真ん中に通じている熊野街道を歩いてみたいと思っていた。
きっかけは京阪電車が発行している「京阪沿線 ウォーキングまっぷ 大阪市内編 熊野街道コース(天満橋→住吉大社)を見てから。
京阪のウォーキングまっぷ

ところが機会がなく、わざわざ一人で歩くほどでもないと思っていた。
そんな時に土曜会のコースに出てきたので“渡りに船”。

熊野街道のスタート地点は天満橋。
その昔、都の人々は淀川を船で下り、天満橋から熊野に向かって歩き始めた。
京阪のウォーキングまっぷでは、天満橋から住吉大社までがコースとして紹介されている。

熊野街道(熊野古道)とは

熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に詣でるための道でした。
熊野は古くから聖地とされ、厳しい道を越えて熊野に足を運ぶことで、来世の幸せが叶うという信仰が生まれました。
さらに江戸時代には、紀州藩が石畳、道標などをつくり、熊野街道としてますます歩きやすく整備されました。

2004年7月熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産に登録されました。
長い時を経て周りの景色は変われども、今なお熊野街道の様々な軌跡が大阪市内に残ります。
歴史のロマンを感じつつ、古人の道筋をたどり、歩いてみましょう。
(以上、京阪のウォーキングまっぷ より)

この日は主宰者(N氏)の時間の都合で、途中の阿部野橋まで歩いた。
歩行距離は約6.9kmと短めだったので、社寺仏閣などゆっくりと観ながら歩くことが出来た。
昼食をアベノ地下街で済ませその後解散した。

「山を登る会」に代表されるように、ただ黙々と歩くのみ、というのも一つの歩きのスタイル。
今回のようにのんびりと歩くのも一つのスタイルで、私としては一つの形に限定することなく臨機応変に歩きたいと思っている。

<コース>
地下鉄谷町線天満橋駅9:33_大阪キャッスルホテル前_八軒屋浜船着場跡_土佐堀通出合_案内板(熊野かいどう)_土佐堀通を西へ_日刊工業新聞社大阪支社前_土佐堀を左折(南)_坐摩神社行宮(ヰかすりじんじゃあんぐう ざまじんじゃあんぐう 窪津王子跡)_北大江公園前_長光寺前・石柱(維新史蹟 贈正四位僧月性龍護遺跡 長光寺)_東横イン天満橋大手前前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から0.5km)_中大江公園前_日本キリスト教団大阪東教会前_阪神高速13号東大阪線の高架下を潜る_石柱(← 太閤下水見学施設)_説明板(太閤下水(背割下水))_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から1.1km)_南大江公園・水呑地蔵尊・説明板(朝日神明社跡(坂口王子伝承地))_石碑(熊野かいどう)_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から1.3km)_説明書(榎木大明神の栞・榎木大明神の由来)・文学碑(直木三十五(直木賞)「南国太平記」より)_長堀橋通(R308)を横断 御祓筋を南へ歩く_大大阪藝術劇場前_左折して空掘商店街を東へ歩く_旧ヤム邸前_谷町筋を横断_大衆食堂スタンド そのだ前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.1km)_右折(南)_大阪キンキ前_大阪市立上町中学校前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.4km)_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から2.9km)_天王寺上汐郵便局前_大阪市立生魂小学校前_天王寺郵便局前_まるはちあられ_天王寺警察署前_谷町筋を南へ_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から4.1km)_四天王寺前夕陽ヶ丘駅前_説明板(四天王寺・椎寺・夕陽丘)_旧町名継承碑(椎寺町)_寺標(妙覚寺)_大阪市立大江小学校前_四天王寺 はやうち(蕎麦)前_四天王寺・中之門・融通地蔵尊・地蔵山_堀越神社前_道標(熊野街道 / 大坂天満八軒家から4.7km)_赤松種苗前_あべちか入口7_12:00とんかつ KYK アベノ地下街店(昼食)12:45_12:53天王寺駅

<メモ>
・参加者総勢: 9名。
・コース歩行 (天満橋駅~天王寺駅までの所要時間と距離)
 歩行距離: 約6.9km。
 所要時間: 2時間19分。
・当日歩行 (自宅~自宅までの歩いた時間と推測距離)
 推測距離: 約14.5km。(0.67m×21,607歩=14,476m)
 歩行時間: 3時間13分。
 歩数: 2万2千歩。
・昼食: とんかつ KYK アベノ地下街店

画像は地下鉄天満橋駅からJR天王寺駅まで歩いたGPSログを表示。



榎木大明神。
大阪市中央区安堂寺町2丁目3。

榎木大明神の由来

長年に亘り、地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植えという説もあり、樹齢はおよそ六百五十年と言われている。
豊臣の時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として、「白蛇大明神」の祠を建てて、代々この樹をお守りしてきた。
昭和二十年(一九四五年)第二次世界大戦の大空襲の折りには、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯が危うく類焼を免れた。
これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸前後には、地元「箔美会」(はくびかい)の人達により、榎木大明神の大祭が挙行されている。
昭和六十三年(一九八八年)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な延命治療により、再び元気をとりもどした。
そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で生誕され直木賞で有名な直木三十五氏の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。
平成六年(一九九四年)十月吉日 榎木大明神 箔美会



大大阪藝術劇場。
大阪市中央区谷町6丁目17。

古い町屋の残る空掘(からほり)地区に明治時代の長屋を改装したフリースペース。



こちらは素人寄席、空堀亭「ふくびき寄席」。
大大阪藝術劇場横の蔵で行われた模様。
入場無料。



融通地蔵尊。
四天王寺境内。

逢坂清水と融通地蔵尊(右)
大阪府有形文化財 地蔵菩薩立像(融通地蔵)

この井戸は逢坂清水の井戸と呼ばれ、もと一心寺の門前西、逢坂の途中にあったが、明治の末、電車道が開かれる道路工事のため融通地蔵尊と一緒を四天王寺の地蔵山に移された。
『摂津名所図会』に「清冽にして四時(四季)増減なし。茶に可なり」との記述がありどんな日照りが続いても、いつも同じような清水をたたえ水枯れせず茶の湯にも適した名水だったことがわかる。
現在は枯れているが、天王寺七名水のひとつである。

おしまい。



2月14日(木)18:43 | トラックバック(0) | コメント(2) | ウォーキング・散策 | 管理


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